ホリショウのあれこれ文筆庫

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第61話 新選組と袂を分かちた「新徴組」

序文・新選組は有名だが、新徴組という幕府組織も活躍したのだ。

                               堀口尚次

 

 江戸で将軍上洛の警護を目的とした浪士組結成募集がなされ、京都へ上洛したが、浪士組のリーダー・清河八郎「将軍警護ではなく、尊王攘夷の先鋒」を唱えたので、同意出来なかった近藤勇土方歳三などが袂を分かち壬生浪士組を経て新選組を旗揚げした。勿論、新選組は幕府の命で京都守護職会津藩預かりとなり京都警備にあたる。

 清河八郎は、元々尊王攘夷の急先鋒でありながら、幕府を欺(あざむ)いて浪士組を利用したのだ。清河は暗殺され、清河の同志達も捕縛された。浪士組に不安を懐(いだ)いた幕府は、直ちに浪士組を江戸に呼び戻し、庄内藩・酒井家預かりの「新徴(しんちょう)組」として江戸市中警備や海防警護の任に就かせた。取締責任者は幕臣の山岡鉄太郎であった。新選組の様に、幕府直轄ではなく庄内藩預かりとなった。

 当時の江戸は、参勤交代緩和によって大名屋敷などに空き家が多く出た為、そこを根城に夜盗・盗賊が跋扈(ばっこ)するなど治安が極度に悪化していた。そこで幕府は新徴組を預かる庄内藩・酒井家に江戸市中の取り締まりを命じたのだが、元々無頼の徒の集まりである新徴組の浪士だけでは統制が取れないとみた庄内藩では、庄内から藩士の次男・三男・徒歩組【下級武士】などを呼び寄せ、彼らに浪士達を見張らせながら江戸市中警備の任に就かせた。

 新選組の様に制服こそなかったが、揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内藩・酒井家の紋所(もんどころ)であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いた。そして五十人二組となって昼夜交代で毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していった為、江戸市民から「酒井【庄内藩・酒井家】なければ江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」とまで謳(うた)われるようになった。おまわりさんとは、古来からある市中巡回の官職である御見廻(おみまわ)りから由来する愛称であるが、この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ現代の警察官にも続いている。

 かねてから薩摩藩の動向を見張っていた庄内藩と新徴組は、遂には薩摩藩邸焼討事件を引き起こし、これが鳥羽伏見の戦いの直接原因にも繋がり、延(し)いては戊辰戦争の引き金となった。

 新徴組は、戊辰戦争では東北を転戦し、新選組沖田総司の義兄がいたことから交流もあったという。かつて袂を分かちた新選組と新徴組だったが、同じ佐幕派の同志として戊辰戦争を戦った事に、歴史のダイナミズムを感じざるを得ない。

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