堀口尚次
過日NHKの歴史探偵という番組で、土方(ひじかた)歳三(としぞう)を取り上げていた。土方が、箱館戦争まで転戦する中、自身が京都の治安維持で新選組として活躍していた時の様な「刀(かたな)」では太刀打ちできないという事を実感したという話の時に、女性アナウンサーが「武士の命である刀が使い物にならないでは、攘夷派としては・・・云々」と言ったので?と思った。尊王攘夷の志士達を取り締まるのが新選組の任務だったのに、新選組の土方が攘夷派とは?
幕末は様々な立場の人が入り乱れており、かなり複雑になっている。幕府と敵対する薩摩藩・長州藩に代表される新政府側は「尊王攘夷派=天皇を尊び、外国人を打ち払う」である事は云うまでもないが、「尊王開国派」も多くいた。幕府側としては、「公武合体派=天皇と幕府が一体となり政治をする」が中心となるが、その中でも、「攘夷派」と「開国派」に分かれていた。
幕府側も「尊王」である事は云うまでもないが、「武家政権」と「天皇親政」での違いがあった。しかし幕府が「大政奉還」をし、「王政復古」がなされた訳だから、結果としては「尊王開国」になった事になる。
新選組は、元々京都に蔓延(はびこ)る過激な尊王攘夷の志士達を取り締まる為に、幕府が、剣豪の浪人を集めて結成させた経緯がある。そして幕府直轄ではなく、京都守護職となった会津藩の元で活動する事となる。新選組以外にも「京都見廻り組」という組織もあった。
このことから、新選組の土方歳三が「尊王攘夷思想」であってもおかしくない。ある意味、幕末の京都では、思想は同じ「尊王攘夷」でも、『討幕側の過激な尊王攘夷の志士』と『佐幕側の尊王攘夷の隊士』との戦いだった事になる。
渋沢栄一も初めは「尊王攘夷」の志士として行動していたが、過激な志士達とは袂(たもと)を分(わ)かち幕府中枢(一橋家家臣)となり「開国派」に目覚めて行った。
江戸幕府の鎖国政策で、外国の進んだ文明を知らなかった人々は「攘夷=外国人を打ち払う」を意識していまい、更に天皇による攘夷思想が拍車を掛けてしまった。徳川幕府の根底には「尊王思想」があったが、260年という長期政権で幕藩体制が疲弊していた事から、「天皇親政への思想」が強まり『尊王攘夷』という形で、時代の波に呑まれていったと思う。だから、いわゆる賊(ぞく)軍と呼ばれ靖国神社に祀られない人々も殆ど尊王思想なのだ。国の為に殉(じゅん)じたのである。