ホリショウのあれこれ文筆庫

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第55話 シベリア抑留の禍根

序文・シベリア抑留兵の過酷な境遇は筆舌に尽くしがたい。

                               堀口尚次

 

 「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らがソビエト連邦によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期に渡る抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じた事に対する、日本側の呼称。抑留兵は57万5千人に上り、約5万8千人が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するが、ロシア側は、移送した日本兵は戦闘継続中に合法的に拘束した捕虜であり、戦争終結時に不当に留め置いた抑留者には該当しないとしている。

 第二次世界大戦末期1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。

 スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を一旦は出していながら、23日にはこれを翻(ひるがえ)し、日本軍捕虜50万人を捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。

 ソ連軍との停戦交渉時に日本側関東軍総司令部とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかという疑惑もある。

 更に、スターリンヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、北海道の分割占領も要求していたが、米大統領トルーマンに受け入れらなかった為、その代償に捕虜をシベリアに送ったという説もある。

 抑留初期の収容所には旧軍制度がそのまま持ち込まれ、旧軍の階級的な身分差別と将校特権が大手を振ってまかり通った為、下級兵士は「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵(ふち)にあえぐ事になった。将校は国際法によって捕虜労働を免除されている。

 そんな中、共産主義の教育が定期的に施され、元々共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振るい、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあった為、兵卒や下士官が熱心な共産主義者になる事が多かった。

 昭和22年から抑留者47万3000人の帰国事業が行われたが、賃金未払い問題や国家賠償訴訟、シベリア特措法など禍根(かこん)を残す事となった。

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