ホリショウのあれこれ文筆庫

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第34話 水戸天狗党の悲劇

序文・幕末水戸藩で起きた、天狗党の乱。過激な尊王攘夷の志が引き起こした。同じ藩内での内戦や幕府・諸藩を敵にまわしての転戦。そして結末は悲劇だった。

                               堀口尚次

 

 幕末に、徳川御三家水戸藩では、藩内が二つの派閥に分かれ激しく争い合った。尊王攘夷派の一派は権力を得ると、「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対して謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、『天狗党』と呼ばれるようになった。

 水戸藩は、幕府の日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書(ちょくしょ)=天皇の命令が書かれた文書 を下賜(かし)=高貴の人から身分の低いひとへ与えること されたとした。これを戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)=秘密の勅命(ちょくめい)=天皇の命令 という。しかしこの密勅が正式な手続きを経ないままの下賜であったため、朝廷から幕府へこれを返納するように命じられたが、そもそも勅諚(ちょくじょう)=天皇の命令 を幕府ではなく、諸藩に直接下すことは稀(まれ)であった。

 この命令への対応を巡り、会沢正志斎(学者・思想家)らの速やかに返納すべしとする「鎮派(ちんは)」と、あくまでもこれを拒む「激派」に分裂した。

「鎮派」は、「激派」を朝廷の命に背く逆賊(ぎゃくぞく)として、追討のための鎮圧軍を編成した。「激派」の一部は脱藩し、桜田門外の変大老井伊直弼暗殺事件・東禅寺事件=イギリス公使館襲撃事件・坂下門外の変=老中安藤信正襲撃事件 などを引き起こす。

 武田耕雲斎(こううんさい)が「激派」の執政(しっせい)=諸藩の家老のような立場 となると、「激派」が水戸藩をリードするようになり、将軍後見職に就任していた一橋慶喜=後の徳川慶喜 が上洛(じょうらく)=京都へ入る することとなると、徳川御三卿(ごさんきょう)=将軍家の血筋の近い親戚 の一橋家はではないので配下の家臣団が少なく、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。

 上洛した水戸藩主・徳川慶篤慶喜の兄)には、武田耕雲斎・藤田小四郎など、後に天狗党の乱を主導することとなる面々が追従し、京都において長州藩桂小五郎久坂玄瑞らと交流し、尊王攘夷の志をますます強固なものとした。

 その後水戸に戻ったが、幕閣(ばっかく)=幕府首脳・老中など 内の対立などから横浜鎖港(さこう)=港を閉じること・天皇の命である攘夷に繋がる が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意し、筑波山に集結した62人の同志達と共に「天狗党」として挙兵したのだ。

 各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、最盛期には約1400人という大集団へと膨れ上がった。急進的な尊王攘夷思想を有する彼らは、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文(げきぶん)に「上は天朝に報じ奉(たてまつ)り、下は幕府を捕翼(ほよく)し、神州の威稜(いりょう)=天皇の威光 万国に輝き候(そうろう)様(さま)致し度」と記すなど、表面的には敬幕(けいばく)を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮徳川家康 の遺訓であると称していた。

 一方、水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が「鎮派」の一部と結んで「諸生党」を結成し、藩内での「激派」排除を開始した。

 他方、「天狗党」は軍資金不足が課題となり、一部の別動隊が、町で放火・略奪・殺戮を働き、暴徒集団として扱われる側面も残してしまった。

 幕府も水戸藩も、この「天狗党」には手をこまねいていたが、幕閣の若年寄=老中に次ぐ役職 で相良藩主・田沼意尊が追討軍総括に任命されると、幕府直属の幕府陸軍や近隣の諸藩に出兵を命じ、水戸藩の反・天狗党派の「諸生党」も幕府側として戦ったが、負けた「諸生党」は敗走し、水戸に逃げ帰り「天狗党」一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。水戸藩主・徳川慶篤江戸屋敷にいたので、水戸領内は「諸生党」の市川三左衛門が実権を掌握していた。

 こうして転戦する中、武田耕雲斎が「天狗党」の首領となり、上洛し禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)=天皇の御所を警護する役目 の一橋慶喜を通じて朝廷へ尊王攘夷の志を訴えることを決した。中山道を進軍し、幕府の「天狗党」追討令が諸藩に出ている中、転戦しながら東山道から北方に迂回し京都を目指したが、頼みの綱とした一橋慶喜が自ら朝廷に願い出て、諸藩4000人の兵を従えて「天狗党」の討伐に向かった。このまま上洛できないと判断した「天狗党」は越前方面に進路を変更した。「天狗党」は、慶喜が自分達の声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次を乞うたものの認められず、ついには投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。

 加賀藩から引き渡しを受けた幕府軍は、ただちに「天狗党員」を鰊(にしん)蔵(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監視し、腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠(こも)る狭い鰊蔵の中に大人数人が押し込められたため衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。この時捕えられた「天狗党員」828名の内、352名が処刑された。その他の人は遠島・追放などの処分を科された。処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・井伊直弼の無念を晴らした。

 「天狗党」降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら「諸生党」が中心となって女児・幼児を含む「天狗党」の家族らをことごとく処刑した。

 その後「天狗党」の残党は朝廷から「諸生党」追討を命じる勅諚を取付け、今度は「諸生党」の家族らがことごとく処刑された。水戸藩におえる凄惨(せいさん)な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。

 『尊王攘夷』、ことに「尊王」に関しては、有名な水戸藩主・水戸黄門=徳川権中納言光圀(ごんちゅうなごんみつくに)の『尊王賤覇(せんぱ)=天皇を尊び、武門はいやしい』の思想が中心にあり、幕府よりも朝廷(天皇)をお守りすることを使命とされていた。

 「天狗党の乱」は、水戸藩のその思想を忠実に守り、武士道として実行していったのだ。身内の一橋慶喜徳川慶喜)に裏切られたと思ったかもしれないが、慶喜には慶喜の立場があり、過激な尊王攘夷運動は鎮圧せざるを得なかったのだろう。

 「天狗党」で処刑された人々、水戸藩の「諸生党」と「天狗党」の家族で処刑された人々を偲び、歴史の大波に翻弄された人々の、勇気・覚悟挫折・葛藤 そして無念・堪忍など、様々な心情を慮(おもんばか)る。機会をつくり関連史跡を巡拝したい。

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