ホリショウのあれこれ文筆庫

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第394話 幻の東武天皇

序文・波乱万丈の皇族

                               堀口尚次

 

 北白川宮能久(よしひさ)親王は、北白川宮2代。陸軍軍人。最後の輪王寺宮(りんおうじのみや)となる。

 輪王寺宮戊辰戦争中の慶応4年に彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。上野戦争の頃から輪王寺宮天皇として擁立されるという噂は流れており、輪王寺宮の江戸脱出に手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(みかど)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されていることや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っている。

  奥羽越列藩同盟仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王能久親王〉も仙台藩からの連絡を受け取り降伏文を奥羽追討平潟口総督へ提出、仙岳院〈能久親王がいた寺〉を出発して途中の江戸で官軍に護送され、その後京都に到着、そこで蟄居を申し付けられ実家の伏見宮家へ預けられた。更に仁孝天皇猶子(ゆうし)〈実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子〉と親王の身分を解かれた。

  明治26年に第四師団長となり、明治28年には日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹(かか)り、台湾全土平定直前に台南にて薨去(こうきょ)。遺体は安平(アンピン)から商船で本土に運ばれた。この際、表向きには「〈能久親王は〉御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。

  親王家の庶子(しょし)〈正室ではない女性から生まれた子供〉として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に出立するも同地で不運の病死を遂げた、この流転多い人生は古代の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)の人生に例えられた。皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎(ほうさい)の世論が沸き起こり、台湾に台湾神社が創建された。また台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られている。