ホリショウのあれこれ文筆庫

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第446話 惟喬親王と木地師

序文・「君が代」の君

                               堀口尚次

 

 惟喬(これたか)親王は、文徳天皇の第一皇子。小野宮を号す。父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王〈後の清和天皇〉を立てた後、第一皇子の惟喬親王にも惟仁親王が「長壮〈成人〉」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信(みなもとのまこと)の諫言により実現できなかったとされている。

 木地(きじ)師(し)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。9世紀に近江国蛭谷〈現:滋賀県東近江市〉で隠棲していた小野宮・惟喬親王が、手遊びに綱引轆轤を考案し、周辺の杣人(そまびと)〈伐採や製材に従事した者〉に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀美の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた。

 近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。日本の国家「君が代は作詞者不明とされてきたが、木地師の藤原朝臣石位左衛門が仕えていた惟喬親王に詠んだ歌という説がある。また、当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。

 惟喬親王主祭神として祀る神社が各地に存在する。木地師の伝承によると、近江国蛭谷〈現:滋賀県東近江市〉で隠棲していた小野宮惟喬親王が住民に木工技術を伝えたのが木地師のはじまりであるとする。これによって惟喬親王木地師の祖と呼ばれ、同地の大皇器地租(おおきみきぢそ)神社のほか全国の山間部で祀られている。また、北区雲ケ畑には惟喬神社がある。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。