ホリショウのあれこれ文筆庫

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第248話 清和源氏の流れと仮冒

序文・徳川家康も源氏になる必要があった

                               堀口尚次

 

 源氏には祖とする天皇別に21の流派があり、清和(せいわ)源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族である。

 清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降嫁して源氏を称した。中でも第六皇子貞純親王の子・経基王源経基)の子孫が著しく繁栄した。

 中級貴族であった経基の子・源満仲多田満仲)は、藤原北家摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立した。

 その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が出た。また一部は公卿となり、堂上家〈公家の家格の一つ・上級貴族〉として竹内家が出た。

 清和源氏の後裔(こうえい)〈子孫〉を称する一族に松平氏〈徳川氏〉があるが、仮冒(かぼう)〈他人の名をかたる〉・伝説の可能性が高いとされる。三河国の豪族。信光の代には賀茂氏を名乗っていたという。家康徳川氏に改姓するにあたって仮冒した氏は藤原氏であった。そのため、慣例で源氏がなるとされていた征夷大将軍に任官されるために、新田氏の末裔となるべく系図を借り受けて「源朝臣」を仮冒するようになったという解釈がされることが多い。1588年の後陽成天皇聚楽第行幸の際には、家康はすでに源朝臣を名乗っていたという。また、家康の祖父の松平清康の代には既に世良田氏の子孫を名乗っていたという説もある。いずれにしても、徳川氏は清和源氏を仮冒したとされる。その後家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍と源氏長者に任じられ、幕府を開いた。

 薩摩国の大名〈鎌倉時代は守護、室町時代守護大名、戦国時代は戦国大名、江戸時代は薩摩藩主〉の島津氏も、元来は中国からの渡来人の末裔である惟宗(これむね)氏の出で、島津家の祖・忠久は惟宗広言の子とされてきた。だが忠久が源頼朝により抜擢・厚遇されたことからその理由付けとして「忠久は頼朝の庶子」という系図を自作し「源朝臣」を称するようになったとされている。故に島津氏も徳川氏同様清和源氏を仮冒したとされる。

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