ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1012話 源氏長者

序文・名誉と権威

                                  堀口尚次

 

 氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が氏長者となる〈現任上首〉。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵(うじのしゃく)〈朝廷において行われた氏の氏人の中から推挙された者を従五位下の位階に叙す制度〉の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院〈公家の教育機関〉・淳和(じゅんな)院〈淳名天皇の別荘〉の両別当〈長官〉を兼任するといわれているが、自身も氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たし、その場合、次席が淳和院別当となると解説している。

 氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。初代は左大臣源信(みなもとのまこと)とされているが、淳和院への別当設置と奨学院そのものの設置はともに元慶5年のことであり、当時の嵯峨源氏及び源氏全体の筆頭公卿であった源融(みなもとのとおる)またはその子の源昇(みなもとののぼる)が両院別当氏長者を兼ねた最初の人物であったと推定されている。

 武家源氏で氏長者となったのは、清和源氏足利義満が最初であり、足利将軍家徳川家康に始まる徳川将軍家清和源氏新田氏の流れを汲むと自称武家のまま氏長者になっている。ただし、義満以後、氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙(よしたね)の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者〈淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある〉義尚を含めても5名であり、実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており〈在任は前者の方が長い〉、他の源氏系公家の就任を排除することになった。戦国時代に入ると再び村上源氏久我家から氏長者が任ぜられている。この背景としては足利将軍の地位が不安定となり、官位の昇進が停滞したことや公家社会との関係の希薄化によって足利家の氏長者への関心が低下したことがあったとみられている。徳川家康以降は、氏長者は徳川家が独占した。

 尚、律令制度が崩壊した後の「氏長者」は源氏のなかの最高権威に過ぎなかったが、徳川家康はその権威に着目し、藤原姓を源姓に改め征夷大将軍氏長者を一身に兼ねることにより日本国王に相当する権威を手に入れて公家と武家の掌握に利用した、という足利義満=日本国王論に依拠した説もある。