ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1011話 鎌倉悪源太こと「源義平」

序文・源頼朝の兄

                               堀口尚次

 

 源義平(よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝庶長子(しょちょうし)正室以外の子で長男〉。通称は鎌倉悪源太〈悪源太、鎌倉源太とも〉。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝義経らの異母兄にあたる。

 義平は当時の宮廷社会で軍事貴族として頭角を現しつつあった源義朝の長男であったが、次弟・朝長が保元4年二条天皇中宮従五位下中宮大夫進に、三弟・頼朝も保元3年に皇后宮少進に任じられたのに対して、官位を得たという記録は残っていない。このことから、義平は義朝の長男であるが嫡子という扱いはされていなかったとされる。これには生母の身分が大きく関与していると見るのが妥当である。

 義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿(もも)を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。

 一行はようやく義朝の妾のいる美濃国青墓宿にたどり着き、ここで義朝は再挙のために義平東山道へ、朝長は信濃・甲斐へ下って兵を募るよう命じた。兄弟は宿を出ると朝長は心細げに「甲斐信濃はどちらへ行けばよいのでしょう」と問うと、義平ははるか雲の方を見て「あっちへ行け」と言うや、飛ぶがごとく駆け去ってしまった。負傷していた朝長は進むことができず青墓へ引き返し、捕らえられるよりは死を望み、義朝は涙ながらに自らの手で我が子を刺し殺した。

 翌永暦元年正月3日、鎌田政清の舅である尾張国の住人・長田忠致(ただむね)の館に逗留していた義朝は忠致の裏切りにあい政清とともに謀殺されてしまった。

 飛騨国に着いた義平は兵を募り、かなり集めたが、義朝横死の噂が伝わると皆逃げ散ってしまった。これまでと自害しようと思ったが、せめて清盛か重盛と相討ちになろうと心に決め、京へ向かった。

 六波羅あたりで機会をうかがっていると、家人だった志内景澄と出会った。怒った義平は詰問するが、景澄は「源氏の世が戻るまで機会をうかがっていたのです」と弁解し、結局、協力することになり、義平は景澄の下人ということにされ、数日、暗殺の機会をうかがった。

 だが、義平の風貌はとても下人風情とは見えずに不審がられ、宿舎の主人が二人の食事の様子をのぞき見ると下人のはずの義平が主の膳を景澄が下人の膳を食べていた。さてはと密告され、18日夜に難波経遠が300騎を率いて宿を取り囲んだ。義平は飛び出すや石切の太刀を抜いて4、5人を斬り捨てて逃げ去ってしまった。

 その後、義平近江国に潜伏するが、25日に石山寺に潜んでいたところを発見され、難波経房の郎党に生け捕られた。

 義平六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は六条河原へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。享年20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。

 福井県大野市和泉地区には、義平が残したとされる青葉の笛がある。伝承によると、義平はその村の長の娘であるみつとの間に、一女を儲けている。その笛は現在は折れていて吹くことはできないが、子孫である朝日家に代々伝わっており今も大切に保管されていて、近年の研究では鎌倉時代より前に作られた笛の特徴があるとされている。

 岐阜県の久津八幡宮社殿造立棟札が残っており、その中に「…伝え聞く、当国八幡宮は、源義平、保元年中に関東鶴岡より、ここに勧請する…」という記述や美濃の各地で見つかっている古文書には、保元年間の義平の寄進状が見つかったこと、飛騨にも義平に関する伝承が幾つか〈下呂市金山地域の義平のヒヒ退治の伝説等〉あり、義平はこの地域を過去にも訪れていた可能性は高い。また平治の乱での挙兵の時には、武運を祈願して久津八幡宮鶴岡八幡宮御神体を祀った。