序文・頼朝への忠義心が仇となった
堀口尚次
梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司(さむらいどころしょし)、厩別当(うまやのべっとう)となる。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた。
平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。治承4年、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺した。景時は大場景親とともに頼朝討伐に向かい、石橋山の戦いで寡兵(かへい)〈少ない兵力〉の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れた。大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。
その後、景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌年に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられ、出世していく。
文武に優れた梶原景時は鎌倉幕府幹部として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役であった。鎌倉殿専制政治をとる頼朝にとっては重要な役割を担った忠臣である一方、御家人たちからは恨みを買いやすい立場の人物であった。
こうした中、景時に恨みを抱いていた御家人たちは、糾弾連判状を作成し2代将軍頼家に言上(ごんじょう)した。頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。その後景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関近くで偶然居合わせた在地武士たちに発見されて襲撃を受け、山へ引いて戦ったのち討ち死にした。
一人の御家人の『忠臣は二君に仕えず』発言が原因で、景時が将軍に讒言(さんげん)したことから、景時包囲網が起こったが、景時こそは源頼朝その人を忠臣と仰ぎ、忠義を貫いてきたのではないか。いつの世も「出る杭は打たれる」ものであり、もともと平家サイドだった景時なのだから、二君に仕えているのだ。