ホリショウのあれこれ文筆庫

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第343話 謀反の疑い・源範頼

序文・ここにもまた頼朝の犠牲となった兄弟が

                               堀口尚次

 

 源範頼(のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

 遠江(とおとうみ)国蒲御厨(かばのみくりや)〈現・静岡県浜松市〉で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかんじゃ)、蒲殿とも呼ばれる。その後、藤原範季(のりすえ)に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。

 建久4年、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記(ほうりゃくかんき)』〈歴史書〉にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文(きしょうもん)〈人が契約を交わす際それを破らないことを神仏に誓う文書〉の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。

 範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。範頼の家人が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、家臣に範頼の家人を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと家人は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(さんしゅう)〈範頼の官職が三河(みかわ)守(のかみ)で参州とは三河のこと〉の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流し、修善寺に幽閉する。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』などによると誅殺(ちゅうさつ)〈罪をとがめて殺す〉されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから伝説の背景になっている。

 越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や、武蔵国横見郡吉見〈現埼玉県比企郡吉身町〉の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。