序文・高校野球でも負けてる方を応援してしまう
堀口尚次
判官(ほうがん)贔屓(びいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。
源義経は治承・寿永の乱後半の平家追討において活躍したが、三種の神器のうち天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を取り戻せなかったことや、兄である源頼朝の許可を得ることなく後白河法皇より左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使(けびいし)に任じられ、頼朝の家来である御家人を使役・処罰するなどの独断専行を行ったことが頼朝の反感を買った。さらに義経の上官として平家追討を指揮した源頼範や、頼朝が義経のもとに奉行として派遣した梶原景時が、平家追討後の義経の傲慢な振る舞いについて訴えたことで頼朝の心証は一層悪くなった。頼朝の怒りを知った義経は起請文を献じて弁明したが、「これまで勝手にふるまいながら、いまさらあわてて弁明しても、もうとり上げることはできない」、「こちらが不快に思っていると聞いてはじめて、こうした釈明をするのではとても許せない」と、かえって怒りを増幅させてしまった。
頼朝は、壇ノ浦の戦いで捕虜とした平宗盛らを連れて京都から鎌倉へ向かった義経の鎌倉入りを拒み、さらに義経が京都へ戻る際に「関東に恨みを成す輩は義経に属するように」と発言したとして、義経に与えていた平家の旧領を没収した。続いて頼朝は「仮病を使って源行家追討の命に従わなかった」として義経を追討の対象とした。義経は頼朝追討の宣旨を得てこれに対抗しようとしたものの従う武士は少なく、義経は藤原秀衡を頼って奥州へ逃亡したが、秀衡の没後、頼朝の圧力に屈した秀衡の子泰衡によって自害に追いやられた。このような義経の末路は、人々の間に「あんなすばらしい方が、このようになってしまって、なんて人生は不条理なものなのだろう」という共感を呼び起こし、同情や哀惜を誘った。
判官とは、源義経が左衛門府の三等官〈判官〉である左衛門尉であったことに、あるいは検非違使の少尉(しょうじょう)であったことに由来する呼び名である。「九郎判官義経」の「九郎」は仮名(けみょう)〈通称〉である。