ホリショウのあれこれ文筆庫

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第408話 討幕の密勅

序文・大政奉還との駆け引き

                               堀口尚次

 

 討幕の密勅(みっちょく)とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日、薩摩藩長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐詔書(しょうしょ)天皇の命令文書〉、または綸旨(りんじ)天皇の意を受けて発給する命令文書である

 日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付であり、いずれも廷臣である中山忠能正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。薩摩藩宛は正親町三条が、長州藩宛は中御門が書いたと言われるが、岩倉具視の側近玉松操が起草しており、岩倉が主導的な役割を果たした。

 10月13日、まず薩摩の大久保利通が長州の広沢真臣を伴って岩倉を訪ね、朝敵となっていた長州藩主父子の官位復旧の沙汰書を受けた。翌14日、正親町三条邸にて大久保と広沢に密勅が手渡され、薩摩の小松帯刀西郷隆盛、大久保と長州の広沢、福田侠平、品川弥次郎が署名した請書を提出した。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬の誅戮(ちゅうりく)を命ずる勅書も出されている。

 一方、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理された。このため討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日薩長両藩に対し下された

 密勅の現代語訳を以下に記す。

『詔(みことのり)を下す。源慶喜徳川慶喜〉は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝〈孝明天皇〉が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう〈滅んでしまう〉であろう。

私〈明治天皇〉は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。』