序文・大政奉還との駆け引き
堀口尚次
討幕の密勅(みっちょく)とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書(しょうしょ)〈天皇の命令文書〉、または綸旨(りんじ)〈天皇の意を受けて発給する命令文書〉である。
日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付であり、いずれも廷臣である中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。薩摩藩宛は正親町三条が、長州藩宛は中御門が書いたと言われるが、岩倉具視の側近玉松操が起草しており、岩倉が主導的な役割を果たした。
10月13日、まず薩摩の大久保利通が長州の広沢真臣を伴って岩倉を訪ね、朝敵となっていた長州藩主父子の官位復旧の沙汰書を受けた。翌14日、正親町三条邸にて大久保と広沢に密勅が手渡され、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保と長州の広沢、福田侠平、品川弥次郎が署名した請書を提出した。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の誅戮(ちゅうりく)を命ずる勅書も出されている。
一方、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理された。このため討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下された。
密勅の現代語訳を以下に記す。
『詔(みことのり)を下す。源慶喜〈徳川慶喜〉は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝〈孝明天皇〉が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう〈滅んでしまう〉であろう。
私〈明治天皇〉は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。』