ホリショウのあれこれ文筆庫

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第948話 知多半島に残る渋谷金王丸伝説

序文・源義朝の敵討ち

                               堀口尚次

 

 土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)は、平安時代末期の僧兵・武将。大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平(さねひら)に預けられる。実平に伴われて関東に下向した後、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加した。

 頼朝と弟の源義経が対立した文治元年、頼朝は京にいる義経を誅(ちゅう)するべく御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている。

 『平治物語』において、源義朝の死を愛妾(あいしょう)である常盤御前に伝えた郎党、渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)昌俊と同一人物する説があるが、史料においては確認されていない。伝説では、昌俊=金王丸は、常盤御前とともにいた幼い義経を覚えていたため討つことができなかったとされる。

 筆者の地元・愛知県知多半島には「渋谷金王丸」の以下の伝説が残る。

 ①知多郡阿久比町の広報あぐいの「あぐいぶらり旅~石造物を巡る〈坂部・卯之山コース 3〉~」から引用。『最勝寺には「古見堂地蔵」がまつられ、地蔵にまつわる伝説が残る。平治2年、野間で殺害された源義朝の家臣“渋谷金王丸”は、主君義朝の首が京に送られるのを知り、首を取り返そうと京に向かうが、馬が病に倒れ進むことができない。轡(くつわ)を井戸で洗い「古見堂地蔵」に献じると、馬の具合が良くなり、再び京を目指した。』

 ②東海市名和町に「トドメキ」の地名と「トドメキ橋」がある。『源義朝平治の乱知多半島に落ち延びたが、知多郡野間(のま)の住人・長田忠致(おさだただむね)は左馬守(さまのかみ)義朝に入浴をすすめ、だまし討ちで殺した。義朝の家来・渋谷金王丸は義朝の首を奪い返そうと長田のあとを追って当神社の前を過ぎ橋を渡ろうとしたが、馬がわなないてどうしても進まない。これは船津大神の神威の故であろうと恐れ、ご神前に引き返して、一心に祈願をこめ、「銘刀三条小鍛冶宗近」を奉納すると漸(ようや)く進むことが出来た。世にこれを「下馬代の宝刀」といい、その所を今トドメキ橋という。』

私見最勝寺のご住職に「渋谷金王丸」について丁寧な説明を受けた。東京都渋谷区の金王八幡宮との繋がりなどもご教授頂いた。

古見堂地蔵が祀られている最勝寺本堂  ※トドメキ橋  いずれも筆者撮影