序文・真相は闇の中
堀口尚次
浅井長政は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄の織田信長と同盟を結ぶなどして、浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害し、浅井氏は滅亡した。
永禄3年代、織田信長は、美濃・斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。
同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。永禄10年9月頃に、長政は信長の妹の市を妻とした。 なお、長政と市の婚姻時期については諸説ある。永禄7年、永禄8年とする説などいくつかの異説がある。
織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したともされる。 さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作った。
元亀元年、信長が徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過し、若狭および越前の朝倉方の城の攻略に乗り出したところ、長政は突如同盟関係にある信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかからせた。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、殿(しんがり)を務めた木下秀吉らの働きにより退却には成功した〈金ヶ崎の戦い〉。
この裏切りについては、信長も当初理由が分からず「虚説たるべき」ととりあわなかったが、現在においても理由は不明である。朝倉氏との同盟関係を重視したとの俗説が広く知られているが、これは江戸時代の創作物が由来であり、学術的にはこの裏切り以前における朝倉氏との同盟関係の存在は亮政(すけまさ)・久政(ひさまさ)〈朝倉義景の祖父と父〉の代を通じて否定されている。ただし、この問題に関しては、長政が六角氏〈守護大名〉から自立した際に朝倉義景と従属関係を結んだことによって初めて両氏の関係が結ばれたとする説も出されている。
【私見】浅井長政・明智光秀といい織田信長は多くの裏切りにあっている。比叡山焼き討ちや長嶋一向一揆など、単なる下剋上では済まされない宿業なのか。