ホリショウのあれこれ文筆庫

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第704話 日本武尊と源義朝にまつわる伝説

序文・馬が動かなくなったトドメキ橋

                               堀口尚次

 

 船津(ふなつ)神社は、愛知県東海市名和町に鎮座する神社である。この地は、第12代景行(けいこう)天皇の御子・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)ご東征の時、伊勢より海を渡られて、ここに御船をおつけになり、なわで船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たとされる

 社伝には、15代・応神天皇の御代にお社を建てられて、船渡大明神の号を賜わり、縄三郷の総氏神であったと伝えられる。61代・朱雀天皇が天慶2年勅して、社殿を造営し、四種田〈御供田、土器田、油田、番匠田〉を賜わり神領となる。

 時に平将門が謀反を起したので、藤原忠文征夷大将軍となり、東征の時、当神社に来て、武運と交通無難を祈願した。それより国司、地頭の崇敬が殊に厚く遠近より参り天下泰平、国家安全、五穀豊穣、交通無難を祈願する者が多くなったという。

 78代二条天皇のに平治元年に、知多郡野間(のま)の住人・長田忠致(ただむね)左馬守(さまのかみ)義朝(よしとも)に入浴をすすめ、だまし討ちで殺した。義朝の家来・渋谷金王丸(こんのうまる)は義朝の首を奪い返そうと長田のあとを追って当神社の前を過ぎ橋を渡ろうとしたが、馬がわなないてどうしても進まない。これは船津大神の神威の故であろうと恐れ、ご神前に引き返して、一心に祈願をこめ、銘刀三条小鍛冶宗近」を奉納すると漸(ようや)く進むことが出来た。世にこれを「下馬代の宝刀」といい、その所を今トドメキ橋という。しかしこの銘刀は正親町(おおぎまち)天皇の永禄3年に、今川義元桶狭間に陣をしいた時、義元に正宗(まさむね)〈銘刀〉と取りかえられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。※「トドメキ橋」や「地名のトドメキ」は現在も残る。

 元禄8年6月宰相大納言徳川光友卿〈尾張藩主二代〉当社にご参拝になり、宝刀正宗をご覧になって大いに感じられ自筆の松の画並びに鶉(うずら)の画の二軸を賜わる。天明6年大納言徳川宗睦(むねちか)卿〈尾張藩主九代〉も当社へご参拝になり、正宗の宝刀をたいへんおほめになって、初穂金若干を下された。又池田候より紋付の戸張、幕、提灯を寄進されたという。その他寛政以後も崇敬者が永代祈祷料として多くの田畑を寄進した。このように古来よりそのご神徳はあまねく崇(たっと)く昭和19年郷社に列せられた。