序文・各地の寺院に広まった「千枚通し」
堀口尚次
一遍(いっぺん)〈延応元年 - 正応2年〉は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗(じしゅう)の開祖。全国各地で賦算(ふさん)と呼ばれる「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える「踊念仏」を行った。徹底的に自身の所有物を捨て「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれた。
一遍は、承久の乱により没落した伊予国〈愛媛県松山市〉の豪族の河野家の次男として生まれる。10歳より仏門に入り、大宰府の聖達上人の元で、浄土教を学んだ。父の訃報を受けると、一度故郷に帰り、半僧半俗の生活を続けていたが、33歳で再出家し、全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の遊行の旅に出る。
熊野本宮大社に着いた時、夢の中に白髪の山伏の姿をした熊野権現〈阿弥陀如来〉が現れ、「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されているので、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」とのお告げを受けて歓喜し、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加し、諸国遊行を続けた。
一遍は、学問や理論ではなく、「念仏をとなえて極楽浄土へ往生する」という仏教的実践、つまり余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧めた。
一遍は、著書を残すこともなく、信徒を組織化して教団を作ることもしなかったが、弟子の他阿弥陀仏が時宗の教団化を行うことで再興した。一遍は念仏札を25万人以上に配ったと言われている。
四国霊場第七十八番札所の郷照寺のホームページに以下の説明がある。『鎌倉時代、時宗の開祖「一遍上人」が四国修行の折に寺の近くを訪れ、その際道端で重病に苦しみ倒れているお遍路にお会いになりました。夢で弘法大師からのお告げがあり、手書きの札を作って飲ませると病人がたちまち元気になり回復したことが千枚通しの由来とされています。 その後、一遍上人は「南無阿弥陀仏」と彫った版木を使って札に文字を写し札を求める多くの人々にお配りになりました。その様子は国宝「一遍聖絵」にも描かれています。千枚通しは、病気の治癒や安産、疫病退散などにご利益があるとされ、全国の信者様からお礼のお手紙やお電話をよくいただいています。ぜひ、千枚通しのおかげをお受けください。』