ホリショウのあれこれ文筆庫

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第906話 空也踊躍念仏

序文・称名念仏の魁

                               堀口尚次

 

 空也(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(ひじり)、市(いち)聖、市上人とも称される。

 観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏口称念仏を日本において記録上初めて実践したとされ、日本における浄土教念仏信仰の先駆者と評価される。摂関家〈上位公家〉から一般大衆に至るまで幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。

 俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する〈空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった〉。

 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。ただし、空也が創建した六波羅蜜寺には「空也踊躍(やくう)念仏」が受け継がれており、国の重要無形文化財に指定されている。

 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代一遍〈時宗の開祖・踊り念仏〉に多大な影響を与えた

 空也には、京都に疫病が流行したとき、空也自らが病魔退散を願って始めたとされる「空也踊躍念仏」が、現代まで続く踊り念仏として伝わっている。 また、鹿に関する逸話も伝わっている。空也鞍馬山に閑居後、その鳴声を愛した鹿を、定盛という猟師が射殺した。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったという。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったという。

 彫像の造形は非常に特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草履履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。これは、空也が「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表している。