序文・人骨で作った阿弥陀如来
堀口尚次
一心(いっしん)寺は、大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院。山号は坂松(ばんしょう)山。本尊は阿弥陀如来。骨仏(こつぶつ)〈遺骨を使って作られた仏像〉の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町大地の崖線(がけせん)上に建ち、広い境内を有している。
文治元年の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称し、後に「源空庵」と改名して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修したという。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。慶長元年、三河国の僧侶であった本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名(しょうみょう)をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
江戸時代、一心寺は寺社奉行直轄の檀家を持たない特別寺院となったが、文化文政時代には衰微していた。だが、50世真阿上人が天保年間の中頃に復興させている。復興の一因としては、庶民向けに宗派を問わずに年中無休で無縁の霊を供養する施餓鬼供養を始めたことがあげられる。これによって当寺は「おせがきの寺」として賑わった。また、この評判から、大坂に丁稚奉公で出てきた地方の次男坊らが大坂で先祖供養をしたいと先祖の分骨を一心寺の納骨堂に寄せるようになり、後に納骨堂が限界を迎えるようになった。そこで、明治20年に嘉永4年から同年までに納められた約5万体の遺骨を粉砕して粉にし、鋳型で固めて阿弥陀如来像像を制作した。これが骨仏の始まりである。
骨仏は、お骨佛堂に祀られている。通常はお盆の間だけの施餓鬼法要を年中無休でやっている寺として知られ、また、宗旨に関係なく参詣や1万円からの費用で納骨を受け入れる寺〈現在は創価学会のみ受け入れを拒絶している〉でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。
現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期〈平成19年開眼。平成9年から平成18年末までの骨で作られている〉の骨仏が安置されている。遺骨の総数は200万柱〈令和2年1月現在〉で、大阪市の無形民俗文化財にも指定されている。