ホリショウのあれこれ文筆庫

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第945話 波乱万丈の東久邇宮稔彦王

序文・戦後処理内閣総理大臣

                               堀口尚次

 

 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)明治20年 - 平成2年〉、のち東久邇稔彦は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣〈在職1945年8月17日-1945年10月9日〉に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQ内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。

 玉音放送が行われて翌々日に開かれた日本人記者団との初の記者会見において、東久邇宮は国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。

 内閣総理大臣退任後の昭和21年に公職追放となり、昭和22年に臣籍降下した。昭和25年に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称で、仏教各派をはじめ、キリスト教など世界各地の宗教や宗派の垣根を越えて平和の大切さを広めるためのものであったが、GHQの指導によって「ひがしくに教」となってしまった。この一件について東久邇は「一部の人に、私が不用意で利用されたのはいけなかったが、私は晩年を、この世界平和運動にささげたいと念願しています」と語り、自らにも利用されてしまった責任があるとして自身の軽率な態度について反省したとされる。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。

 第二次世界大戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」とも書き記している。