序文・血は争えない
堀口尚次
井伊直政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。
徳川氏の家臣〈家臣になった当時は外様〉。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘艦』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王、徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
「井伊の赤備え」は、天正10年の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、家康により直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景(やまがたまさかげ)の意志を継ぐという意味もあったが、その他に赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。
天正12年の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏(まと)って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
井伊直弼は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第16代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが〈安政の大獄〉、それらの反動を受けて暗殺された〈桜田門外の変〉。幼名は鉄之介、後に鉄三郎。諱(いみな)は直弼。大獄を行って以降は「井伊の赤鬼」の渾名(あだな)でも呼ばれた。
井伊大老の元、老中首座として安政の大獄を行った間部詮勝(まなべあきかつ)は、尊攘派から「井伊の赤鬼」に対し「間部の青鬼」とよばれていたとか。