ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第792話 大本営政府連絡会議

序文・空洞化した仕組み

                               堀口尚次

 

 大本営政府連絡会議は、昭和12年11月に設置された、大本営政府間の協議のための会議である。昭和15年11月に大本営政府連絡懇談会に改称。さらに昭和16年の第三次近衛内閣において再度、大本営政府連絡会議となる。

 大本営の最高意思決定機関は「大本営会議」で、統帥権大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限の独立により、出席できるのは天皇と陸軍・海軍の統帥幹部に限られていた。そこで政府首脳との意思統一・疎通の場として、連絡会議が設置された。議長は内閣総理大臣大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長軍令部総長〈場合によっては次長も〉が出席した。また内閣書記官長と陸軍省海軍省の軍務局長が幹事として出席した。

 連絡会議では議長に強い権限はなく、誰もイニシアティブを発揮できない仕組みになっていた。さらに陸海軍同士のセクショナリズムも強く、情報共有どころか、予算や資材を巡るやり取りの場に化することもあった。こうしたことが、戦争指導に重大な欠陥をもたらすことになった

 日米開戦後の東條内閣では、輸送船舶と物資の不足に悩む東條英機総理と、作戦行動などを一切明さず徒に船舶を損耗(そんもう)〈消耗〉していく統帥部との間で、対立が深刻化。昭和天皇の臨御(りんぎょ)〈天皇が出向いてその場に臨むこと〉を求めなければ決着できない事態に至った。昭和19年2月、東條総理兼陸相参謀総長を、島田繁太郎海相軍令部総長を兼任するという、大日本帝国憲法下異例の事態を現出した。

 東條の後を受けた小磯国昭は、連絡会議を「自由な放談あるいは議論を述べることができる」場とするべく、昭和19年8月、連絡会議を最高戦争指導会議へと発展的解消させた。出席者は連絡会議よりさらに限定されたが、政軍の一元的な戦争指導は最後までついに実現しなかった

 昭和天皇は、日米開戦を避けるためにあえて陸軍の中枢に君臨する東條に白羽の矢を当て総理大臣とした〈虎穴に入らずんば虎子を得ず〉が、その東條をしてもこの大本営政府連絡会議における「統帥権の独立」は崩せなかったとうことか。それどころか東條が統帥権を握ってしまう結果になってしまったのか。