ホリショウのあれこれ文筆庫

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第935話 寝返った小早川秀秋

序文・二十歳の若者

                               堀口尚次

 

 小早川秀秋は、安土桃山時代の武将、大名。丹波国亀山城城主、筑前国名島城主を経て備前国岡山城主。

 豊臣秀吉正室高台院北政所の甥小早川隆景の養子となった。関ケ原の戦いで東軍に寝返り、東軍勝利の契機をつくった

 秀秋正室である長寿院は毛利輝元関ケ原の戦い西軍総大将〉の養女であり、文禄3年秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり長寿院は実家に帰ったようである。

 秀秋は当初、慶長5年7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正〈西軍方武将〉を追い出して入城した。

 関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。たびたび使者を送ったにもかかわらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたともいう。

 現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別出来なかった可能性が高いことも指摘されている。さらに近年では一次史料より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反も開戦直後であったともある。

 この秀秋の離反については、当初から秀秋の家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所高台院〉様のために動いている」と書かれた連書状が現存している。

 『関ヶ原の闘い』で西軍方を裏切った行為に付いて、当時の秀秋への世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにもかかわらずに裏切り、西軍を瓦解させた事は卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた。