ホリショウのあれこれ文筆庫

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第879話 旗本・戸田内蔵助光賢「時の太鼓」

序文・将軍お墨付き

                               堀口尚次

 

 戸田光直〈明暦3年 - 享保元年〉は、江戸時代中期の旗本。北方戸田家初代。 美濃加納藩初代藩主・松平光重の三男。2代藩主松平光永の弟。正室交代寄合・横田溝口家の溝口宣就の娘。子に戸田光言がいる。幼名は千代松、通称は孫七郎、内蔵助。初名は光賢。寛文8年、兄の光永家督を相続した際、兄の光正〈文殊戸田家〉と共に同国本巣郡・席田郡5,000石を分(ぶん)知(ち)るされた。同年10月11日、将軍・徳川家綱に拝謁し、寄合に列した。元禄3年に定(じょう)火消(びけし)となるが、元禄14年に懈怠(かいたい)により小普請に降格となった。享保元年没、享年60。小石川の祥雲寺に葬られた。子の光言の跡は、本家の松平光煕の四男の光清が養子入りした。その後、本家に婿として養嗣子〈松平光行〉を出すなどしながら、同家は幕末まで旗本として存続する。

 方陣岐阜県本巣郡北方町美濃国本巣郡〉にあった陣屋である。北方町指定史跡。戦国時代に存在した北方城の城跡の一部を使用しており、現在の大井神社の南一帯といわれている。寛文8年、美濃国加納藩藩主・松平光重の三男である戸田光直戸田内蔵助光賢に分知された旗本5,000石の陣屋である。美濃国席田郡の8ヶ村〈現在の本巣郡北方町本巣市の一部〉を所領していた。北方陣屋は、明治元年まで存続する。建物のうち、門は移築されており、浄土真宗本願寺派本願寺岐阜別院をはじめ、数箇所が現存するという。跡地は昭和30年付で北方町指定史跡となっている。

 旗本初代戸田光賢は、元禄10年に馬術の御前披露で妙技を見せ、将軍徳川綱吉から「時の太鼓」を許されるという破格の栄誉を受けた。この時を告げる太鼓は大名にしか許されなかったもので、特に打ち上げの打法は御三家にしか許されない貴重なものであった。以来明治維新まで、北方村に太鼓の音で時を告げて、住民の生活の目安とした。なお、現在は毎年6月10日(時の記念日)に古式に則り打っている。光賢が将軍徳川綱吉から「時の太鼓」を授かったさいに、さらに三つ葉葵の紋を使用してもよいとの言葉を賜ったが、光賢はその代わりに毎月10日、20日晦日を定例の「紋日」として、女中や子守女等に暇を出して休ませることを一般に通達する許しを得た。 このように弱者に対する心配りのある殿様であることに感激した領民が唄い踊り出したのが「北方踊り」のはじまりだといわれている。