ホリショウのあれこれ文筆庫

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第406話 参勤交代した旗本

序文・大名ではないが参勤交代した

                               堀口尚次

 

 交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合(よりあい)〈3,000石以上の上級旗本無役者・布衣(ほい)=旗本下位の衣装 以上の退職者〉に含まれる。江戸定府(じょうふ)〈在住〉の旗本寄合に対して、所領に住み江戸へ参勤交代を行う寄合の意。

 因みに旗本は、徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満のうちで、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見(おめみ)え以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構〈旗本領〉は知行所と呼ばれた。

 交代寄合は、禄高が1万石以下ではあったが、旗本が江戸在府であり若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため大名と同等、もしくはそれに準ずる待遇を受けた。江戸城内での伺候席(しこうせき)〈江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席〉は一部の家は“帝鑑間(ていかんのま)”、ほとんどは“柳間(やなぎのま)”に詰めた。

 また大名と同様に参勤交代することを許されていたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として100石に付き金2両を8月と2月に分納した。

 官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはほとんどなかった。

 中部地区では、「美濃衆」と呼ばれた美濃国石津郡〈現在の大垣市〉の高木3家がある。伊那衆・那須衆・三河衆とともに美濃衆は交代寄合のうち「四衆」に分類される。美濃衆は「川通御用」の公儀の役務〈水行奉行〉を負うことにより特殊権益を持っていた。このため、血縁関係の他、美濃周辺の諸藩や尾張藩とは普段から親密な付き合いがあった。宝暦治水の木曽三川流域の治水事業には他に笠松に陣屋を置く美濃郡代も担当しており、幕府支配の高木家と、勘定奉行支配の美濃郡代ではスタンスが異なった。美濃郡代笠松陣屋に居を構え、天領支配を行う地方役所と治水担当の堤方役所を指揮した。川通御用を命じられた高木家では川通役人を設置し、堤方役人と共に治水事業にあたった。このため高木家は宝暦治水の監督も担当した。