ホリショウのあれこれ文筆庫

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第735話 戸田康光は本当に家康(竹千代)を売ったのか

序文・三河の複雑な勢力関係

                               堀口尚次

 

 戸田康光(やすみつ)は、戦国時代の三河国の武将。渥美半島三河湾一帯に勢力を振るった。初名は宗光で、松平清康〈家康の祖父〉の偏諱(へんき)を受けて康光と改める。

 戸田氏の宗主として、三河原城を根拠地としつつ、二連木(にれんぎ)城〈現豊橋市〉などに一族をおいて三河湾一帯を支配しようとしたが、北からは松平氏、東からは今川氏など、はるかに大きな戦国大名東三河に進出してきたため、これらに屈服を余儀なくされた。はじめ松平氏に従っているが、松平氏松平清康の死後衰えて今川氏に服すると、戸田氏も同じく従属した。それでも天文6年頃に今橋城〈元豊橋市・後の吉田城〉の牧野成敏を討って戸田宣(のぶ)成(なり)を入城させ、牧野氏を牛久保城〈現豊川市〉に追った。

 その後、松平広忠が水野信元の妹である於大の方と離縁をすると、娘の真喜(まき)姫〈田原御前〉を広忠に嫁がせている。広忠の離縁と再婚については、従来の通説では信元が織田氏との同盟を結んだためと言われてきたが、近年では広忠と於大の婚姻自体が広忠の叔父でその後見役だった松平信孝の方針であったと考えられている。その後、信孝が松平領の一部を譲って牧野氏とも同盟を結ぼうとし、信元も知多半島南部にも勢力を持つ戸田氏に対抗するために牧野氏との同盟に加わったところ、成人した広忠や重臣たちがこれに反発して信孝を追放、信孝の盟友である水野氏との婚姻も破棄したとする指摘がされている。この見解に従えば、戸田康光松平広忠は共に水野氏・牧野氏と敵対関係にあり、彼らに対抗するために婚姻を結んだとする説明が可能となる。系図によると真喜姫には、広忠との間に徳川家康の異母兄弟である松平忠政・松平家元・恵最・内藤信成らを儲けたとされるが、彼らの生母はそれぞれ別におり、自らの子として養ったか、後見という立場であったと考えられる。

 康光は、天文16年、今川義元の命を受け、駿府に人質として送られる広忠の嫡男・竹千代のちの徳川家康を岡崎から迎え、駿府まで送り届ける任を負った。ところが、竹千代とその随員からなる一行は岡崎城を徒歩で出立し、渥美半島に入って老津(おいつ)の浜から舟で駿府まで送り届けられる予定であったが、一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国戦国大名織田信秀〈信長の父〉のもとに到着した。これは康光が織田氏に通じて今川氏から離反したものであったが、三河物語によれば永楽銭で千貫文、松平記には百貫文で売り渡したと記されている。これに怒った義元は田原に兵を差し向けた。康光は田原城に籠り抵抗するが圧倒的な兵数差には敵わず、嫡男ともども討死して田原戸田氏は滅亡した。ただし、この時には田原城は落城せずに尭光が今川氏に抵抗を続け、最終的に落城したのは天文19年頃であったとする説もある。

 ただし、近年の研究では、戸田氏と牧野氏の今橋領〈現豊橋市〉を巡る争いから、一時的に今川氏・織田氏が連携して戸田氏・松平氏と対抗する事態が発生し、天文16年に今川氏が戸田氏を、織田氏松平氏を攻める事態になったとする考え方がある。また、これを裏付ける文書として同年の9月に岡崎城が織田軍に攻め落とされたとするものがあり、この説に基づけば、戸田康光が竹千代を売り渡したとする話そのものが後世の創作で、実際には岡崎城を攻め落とされた松平広忠降伏の証として竹千代を人質に差し出したのではないかとされている。