ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1071話 美濃で活躍した代官・川崎平右衛門

序文・頼りにされたお代官様

                               堀口尚次

 

 川崎定孝、元禄7年 - 明和4年は、江戸時代の農政家。宿場の名主を務め、後に抜擢されて江戸幕府旗本となった。通称、平右衛門辰之助

 名主・農政家として活躍するかたわら、薬の販売にも携わっており、享保17年4月に象洞や白牛洞という薬の発売を出願し、許可されている。象洞は、象の糞を乾燥させて作った丸薬で、疱疹に効くとの触れ込みで売り出され、販売益は新田開発や大國魂(だいこくたま)神社の随神門(ずいしんもん)〈仁王門の神社版〉の造営費に充てられた。

 農間の渡世として茣蓙(ござ)を織っていた美濃国山県郡深瀬村の村民に「蓙織より花蓙織をやった方が収入がもっと増える」と教え、北武蔵の入間郡坂戸村から熟練者を1人招いて技術を伝達させた。

 寛延2年7月美濃〈現岐阜県美濃郡代支配下に入り4万石支配となる。輪中のある西美濃から木曽・長良・揖斐三川のデルタ地帯が管轄支配地域となった。翌3年に、手代の高木三郎兵衛と内海平十郎とともに本巣郡本田陣屋〈現岐阜県瑞穂市本田〉に赴任。大榑(おおぐれ)川の喰違堰(くいちがいぜき)の百姓自普請に際には、笠松郡代の青木次郎九郎や水行奉行たちとともに普請箇所を視察した。平右衛門は湛水防除策として掘り上げ田の造成を奨励している。

 宝暦4年に本田陣屋の第12代目の代官に抜擢長良川とその水系の水利事業には、輪中地帯特有の利害対立を調整して対立の緩和を図り、水利技術を発案して問題の解決に努めた。水害後の救済策として、他所から熟練の職人を招き、花茣蓙作りを教えて特産物にした。宝暦6年10月から、牛牧閘門(こうもん)〈現岐阜県瑞穂市牛牧・五六(ごろく)川〉の普請を開始し、翌年には完工。同時に五六橋川の川除け堤の築登りも竣工させた。在任中には、輪中住民による水論の裁きも行なう。

 宝暦7年、出羽国越後の代官領5万石を約1年間、臨時預りする。宝暦10年に本田陣屋から転任した際には、牛牧輪中12村の村人や、上郷村々を初め本田代官所支配下村々の村役人たち、さらには水呑百姓に至るまで、慈父を失ったように嘆き悲しみ、別離を惜しんで見送ったと伝わっている。

 美濃国には彼の遺業を称える石碑が、岐阜県本巣郡穂積町牛牧の興禅寺や、野田新田に川崎神社がある。興禅寺にある平右衛門の墓には、「霊松院殿忠山栄大居士」と戒名が彫られており、岐阜の農民が遺品として戴いた代官佩用の刀一振が御霊代として地中にあり、下役2名の墓がともに並んでいる。

※供養塔 筆者撮影