ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1070話 大仏を建立した永田佐吉

序文・佐吉大仏

                               堀口尚次

 

 永田佐吉〈元禄14年 - 寛政元年〉は、美濃国羽栗郡竹ヶ鼻村〈現・岐阜県羽島市〉出身の豪商、人徳者。別名・仏佐吉。号は覚翁、実道。

 貧しい農民の子として生まれる。幼くして両親と死別、継母に育てられる。10歳の頃、尾張国名古屋の紙問屋へ丁稚奉公へ出る。まじめに働きながら読み書きを覚える。まじめぶりが災いして問屋の他の店員に疎まれ、主人から惜しまれながら去る。郷里の竹ヶ鼻村へ戻ると、綿の仲買を始める。正直でまじめな働きぶりから人々から信頼を得、財をなす。綿の値段を相手の言い値で売買したり、餅屋を始めた際、同業者に迷惑をかけないように値段を高めにするといった、様々な話が伝わる。佐吉の商売は、相手との信頼関係を第一としたものであった。しかし、その財は私利私欲のためでなく、道の整備、道標の設置、石橋の設置、神社仏閣への寄進等、人々のために使われた。佐吉はこれらの寄進や寄付、寄贈に自分の名前は残さず、村全員が行ったとしている。私利私欲は全くなく、母親や人々のためにつくし、深く仏を信仰し、人徳者だったという。このような話は数多くあり、人々は佐吉を「仏佐吉」として尊敬したという。寛延3年、母親と人々のために大仏を建立する〈佐吉大仏〉。この大仏は江戸の鋳物師に発注したが、船で運搬中に嵐で沈んでしまう。佐吉は「大仏は海中から人々を守ってくださる」と船主を責めることなく、再度江戸に大仏を発注したという。

 明治21年8月刊行の尋常小学校の教科書『尋常小学修身口授教案』には、親孝行、人徳、信仰、信頼、謙虚という点から、題目『善き人にはさひわいがくる』として紹介されている。

 佐吉大仏は、岐阜県羽島市竹鼻町209にある大仏である。建立者は永田佐吉。別名竹鼻大仏。建立のきっかけは、佐吉が旅先で重病にかかり、神仏に念じて治癒したことを母親に話したところ、釈迦如来像を造るのを勧めらたことからという。佐吉の性格上、大仏に自分の名は残さなかったが、地元の人々が佐吉を偲んで、何時しか佐吉大仏と呼ばれるようになったという。佐吉大仏をまつった建物〈大佛寺〉は明治24年の濃尾地震で被災し焼失。その後約70年は屋外のままであったが、昭和37年佐吉堂が建てられ、その中に佐吉大仏はまつられている。隣接して大仏児童公園がある。

※筆者撮影