ホリショウのあれこれ文筆庫

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第678話 御器所八幡宮と医王山神宮寺

序文・神仏混淆の名残

                               堀口尚次

 

 御器所八幡宮は愛知県名古屋市昭和区御器所四丁目に鎮座する神社〈八幡宮〉。熱田神宮鬼門を鎮護するため仁明天皇勅願社として鎮座されたとの言い伝えがあり、9世紀初頭の創建とも考えられるが、創建年代は不明としている。

 嘉吉元年に佐久間美作守(みまさかのかみ)家勝らによって医王山神宮寺の西側にあった八所大明神が修造された際の棟札(むなふだ)が残る。佐久間氏は御器所西城〈現・尾陽神社〉を築いて周辺を治めていたが、神社は御器所荘の総鎮守として祀られ、以降も佐久間氏による営繕の記録がある。また、徳川家康関ケ原の戦いの直後に神護に感謝して寄進をする旨を記して送った棟札も残されているという。

 医王山神宮寺は、愛知県昭和区御器所にある真言宗豊山派(ぶざんは)の寺。山号は医王山。大名古屋八十八カ所 三十六番札所。本尊は薬師如来薬師瑠璃光如来〉。仁明天皇勅願寺とされ、また御器所最古の寺である。寺伝によれば、医王山神宮寺は弘仁4年に嵯峨天皇により、現在の名古屋市熱田区神宮付近に創建が計画されたといわれる。しかし、嵯峨天皇崩御し、遺志は第二皇子である仁明天皇へ引き継がれたとされる。

 承和2年仁明天皇の勅願により、嘉祥3年神宮付近に熱田神宮別当補佐職の任を受けた高野山の僧・成惠僧都により、熱田宮鬼門除け鎮護修法所として、常磐神護寺の名で創建されたとされ、当時は嵯峨天皇の勅筆の仁王護国般若経、勅額などが納められていたとされる。

 嘉元2年に雷火により堂や文庫・庫裡・経蔵等が焼失したため、現在の名古屋市昭和区御器所へ移り、草堂を建立した。その際に、熱田宮奥ノ院木木津山神宮寺にならい、神護寺より現在の呼称である医王山神宮寺へ改称したとされる。また、開山より無本寺であったが、高野山金剛峯寺の末寺となる。嘉吉元年12月16日に神宮寺境内奥山に、御器所城主佐久間美作守家勝の勧進により、旧御器所村の氏神である八幡大菩薩現在の御器所八幡宮を迎える。当寺が禰宜(ねぎ)〈神職宮司の補佐〉を兼ねることになる。

 明治に入ると、神仏分離令により御器所八幡宮と分離される。明治20年1月、高野山より拝命された中興桑原實定法尼により復興。昭和20年太平洋戦争により諸堂が皆焼失する。現住職貞純に至り、昭和46年に有志の助力にて本堂が再建、昭和61年観音堂落慶される。

 一般にいう「神宮寺とは、日本神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院仏堂をさす別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院ともいう。別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある。

 日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋(あつ)轢(れき)が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏〈本地〉の仮の姿である神〈権現あるいは垂迹(すいじゃく)を祀る神社が営まれるようになった。本地垂迹

 鎌倉時代室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。

 しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。

 私は過日、御器所八幡宮と医王山神宮寺と尾陽神社を訪ね、偶然にも朝の掃除をされていた神宮寺の住職から、色々貴重なお話を聞くことができた。御器所八幡宮と医王山神宮寺の敷地は隣接しており、明治維新廃仏毀釈を免れた貴重な場所である。