ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1069話 大石内蔵助を接待させた細川綱利

序文・細川家の守り神

                               堀口尚次

 

 細川綱利(つなとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥後国隈本藩3代藩主。熊本藩細川家4代。元禄赤穂事件後に大石良雄〈内蔵助〉赤穂義士を預かり歓待したことで知られる。

 元禄15年12月15日早朝、吉良義央を討ち取って吉良邸を出た赤穂46士は、大目付仙石久尚に自首しに向かった2名と別れて、他は主君・浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。

 一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中・稲葉正通(まさみち)より、大石良雄始め赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、始め泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。しかし、その後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中に怪我人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門〈細川家家臣・大石らの接待役〉覚書』にある。

 この間、綱利は義士たちを一目見たいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は毎回、湯を入れ替え、「湯がやわらかくなるから」と全員をまとめて入れた。「洗濯ものが庭先に干してあるのは見苦しい」として下帯も週に二度は与えた。後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理も全てが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。

 綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召し抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。

 このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の〈水野〉流れは清けれど ただ大海〈毛利甲斐守〉の沖〈松平隠岐守〉ぞ濁れる」と狂歌からも窺(うかが)われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。しかし、実際には水野家では義士を「九人のやから」と呼び、「寒気強く候につき臥具増やす冪(べき)あり申せども、その儀に及ばず初めの儘(まま)にて罷(まか)りあり」とまるで人間扱いしない薄情な記述がある。〈『水野家御預記録』〉

 細川邸では、潮田や両大石〈良雄・信清〉らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供された酒を、様子を見に来た堀内にたらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や煙草、下戸向けの茶や菓子を出さなかったので義士たちから文句が出た。堀内は「忘れた」と言って出そうとしなかったので、また酒を飲まされた。切腹当日に堀内は義士を放置して帰宅してしまい、同僚に馬で連れ戻されている。なお預かり期間中に、堀内は義士たちから聞き取りをして、討ち入りの様子や義士の家族など多くが書き留められている。〈『堀内伝右衛門覚書』〉

 しかし年改まって元禄16年2月、「徒党を組み押し入る始末、重々不届きにつき切腹を申し付ける」という旨の命令書を携えた幕府の上使が細川邸に到着する。杉本義鄰著『赤穂鍾秀記』では、大石がこの命令書に畏(おそ)れ入らずに異議を唱えて云(いい)返(かえし)をしたとある。 切腹に当たっても、綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として、大石良雄は細川家重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。落合勝信赤穂藩家臣〉『江赤見聞記』には大石良雄介錯を仕損じ、大石が大声を出したので二度斬りをしたとあるが、細川家の記録では確認できない。

 幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も、綱利は「彼らは細川家の守り神である」として断り、17士の遺髪を分けて頂き義士の墓と供養塔を建て、反対する家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には切腹場所を屋敷の名所として紹介したともいわれている。

 かつては肥後熊本藩江戸下屋敷があった東京都港区高輪の「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑は、私有地のため現在は門の中には入れない。