ホリショウのあれこれ文筆庫

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第611話 失意の瑤泉院の心中はいかに

序文・落飾した大名の正室の立場

                               堀口尚次

 

 瑤泉院(ようぜんいん)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩浅野長矩正室。名は阿久里(あぐり)。夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重〈浅野長矩の曽祖父〉の娘〈銅像のある鳳源寺では長治の側室・お石の方としている〉。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。浅野内匠頭長矩と阿久里は、又従兄弟にあたる。

 生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5年9月に婚約が成立、延宝6年4月9日には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移った。天和3年正月に婚儀が執り行われて同年4月9日に正式に長矩室となった。子には恵まれず元禄8年12月に長矩の弟・浅野長広を養子としていた。

 しかし元禄14年3月14日、長矩が江戸城殿中で高家肝煎吉良義央〈上野介〉に刃傷に及ぶと、殿中抜刀の罪により即日切腹赤穂藩改易となる。阿久里は16日には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られた泉岳寺における長矩の葬儀には参列していないが、落飾して寿昌院と称した。これは桂昌院(けいしょういん)〈三代将軍徳川家光正室〉を憚(はばか)るべしと、広島宗家の浅野綱長から叱責され瑤泉院と改めた。※寿昌院と桂昌院で「昌」の字がかぶる

 瑤泉院は化粧料〈持参金〉二千両を赤穂の浜方〈塩田業者〉に貸し付けていたが〈塩田から上がった運上銀から利息〉、長矩の死を知った借り主の大半が元金を踏み倒したため、うち六百九十両のみ回収した。

 元赤穂藩家老の大石良雄らが吉良邸討ち入りを決定すると、瑤泉院はこの六百九十両を大石に託した。吉良を討ち取り後に赤穂義士切腹となった後は、日蓮宗に改宗し、四谷鮫河橋の妙行寺に度々参拝した。同寺に高光院(義祖母、丹羽長重娘)の墓を建て永代供養もしている。浅草の慶印寺でも題目十萬遍を唱えて居る。

 正徳4年、三次浅野家下屋敷で死去。享年41。夫と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。戒名は瑤泉院殿良瑩正澄大姉。生まれ故郷の三次の鳳源寺に、瑤泉院を供養した五輪の遺髪塔がある。