序文・落飾した大名の正室の立場
堀口尚次
瑤泉院(ようぜんいん)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の正室。名は阿久里(あぐり)。夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重〈浅野長矩の曽祖父〉の娘〈銅像のある鳳源寺では長治の側室・お石の方としている〉。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。浅野内匠頭長矩と阿久里は、又従兄弟にあたる。
生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5年9月に婚約が成立、延宝6年4月9日には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移った。天和3年正月に婚儀が執り行われて同年4月9日に正式に長矩室となった。子には恵まれず元禄8年12月に長矩の弟・浅野長広を養子としていた。
しかし元禄14年3月14日、長矩が江戸城殿中で高家肝煎・吉良義央〈上野介〉に刃傷に及ぶと、殿中抜刀の罪により即日切腹、赤穂藩は改易となる。阿久里は16日には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られた。泉岳寺における長矩の葬儀には参列していないが、落飾して寿昌院と称した。これは桂昌院(けいしょういん)〈三代将軍徳川家光の正室〉を憚(はばか)るべしと、広島宗家の浅野綱長から叱責され瑤泉院と改めた。※寿昌院と桂昌院で「昌」の字がかぶる
瑤泉院は化粧料〈持参金〉二千両を赤穂の浜方〈塩田業者〉に貸し付けていたが〈塩田から上がった運上銀から利息〉、長矩の死を知った借り主の大半が元金を踏み倒したため、うち六百九十両のみ回収した。
元赤穂藩家老の大石良雄らが吉良邸討ち入りを決定すると、瑤泉院はこの六百九十両を大石に託した。吉良を討ち取り後に赤穂義士が切腹となった後は、日蓮宗に改宗し、四谷鮫河橋の妙行寺に度々参拝した。同寺に高光院(義祖母、丹羽長重娘)の墓を建て永代供養もしている。浅草の慶印寺でも題目十萬遍を唱えて居る。
正徳4年、三次浅野家下屋敷で死去。享年41。夫と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。戒名は瑤泉院殿良瑩正澄大姉。生まれ故郷の三次の鳳源寺に、瑤泉院を供養した五輪の遺髪塔がある。