ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1072話 森蘭丸の兄・鬼武蔵こと森長可

序文・武蔵守→鬼武蔵→武蔵塚

                               堀口尚次

 

 森長可(ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏。父は森可成(よしなり)。兄に森可隆(よしたか)、弟に森成利(なりとし)〈蘭丸〉ら。受領名は武蔵守。

 天正12年、羽柴秀吉織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父(がくふ)〈義理父〉である池田恒興と共に秀吉方に付いた。膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱のために別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。

 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、すでに総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するものの水野勝成の家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。戦死の地と伝わる場所〈愛知県長久手市〉には「武蔵塚」が建てられている。長可は、父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、鬼武蔵と称されていた。享年27。

 その後、死体を担ぎ上げて撤退しようとする森軍の兵士に大久保忠世配下の本多八蔵が追いすがり森軍の兵を散らすがこの時、急時のため徳川軍には「首取るに及ばず」という指令が出ており、八蔵は葉武者の如く突出してきた長可を大将首とは思わずに鼻を削ぐと脇差を奪い取りその場を後にする。さらにその後に別の武者がその死体に駆け寄り、首を取ると旗印を外して捨て、長可の羽織っていた白装束を脱がせそれで首を包むと槍の先に付けて馬に乗り、武功を大声で誇りながらその場を立ち去ったが、実はこの武士は徳川の兵ではなく森家の田中某という小姓であったという。このため、長可の首は徳川軍には渡らず、金山〈地元金山城・現岐阜県可児市〉に持ち帰られた。 

※筆者撮影