ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第402話 大黒屋光太夫の足跡

序文・アリューシャン列島への漂着

                               堀口尚次

 

 大黒屋光太夫は、江戸時代後期の伊勢国庵芸郡白子〈現在の三重県鈴鹿市〉の港を拠点とした回船〈運輸船〉の船頭。天明2年、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島〈当時はロシア領アラスカの一部〉のアムチトカ島に漂着。ロシア皇帝の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチャリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年に根室港入りして帰国した。

 幕府老中の松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。蘭学者による聞き取り『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などで度々取りあげられている。

 伊勢国から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風に遭い航路を外れる。7か月あまりの漂流ののち、一行はアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。元々はロシア人に保護されるような立場だったが、そのロシア人たちを帰還させるためにやって来た船が到着目前で難破し、漂流民が逆に増えた。そのため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し脱出用の船を作った。

 日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節に伴われ、漂流から約10年を経てと3人で根室へ上陸、帰国を果たした。根室では、蝦夷地を支配していた松前藩を経由して江戸の幕府に伺いを立てる必要があって交渉に時間がかかり、一行は根室で越冬を余儀なくされた。

 江戸では11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。なお、三重県鈴鹿市若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市文化財に指定されている。