ホリショウのあれこれ文筆庫

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第243話 樺太(サハリン)の悲劇

序文・南樺太の領有権は国際法上は未定のまま

                               堀口尚次

 

 明治38年から昭和20年までは、北緯50度線を境に、南半分〈南樺太〉を「樺太」として大日本帝国が、北半分〈北樺太、北サハリン〉を「サハリン」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。

 昭和20年8月、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。これは昭和20年2月、米英首脳がソ連に対してナチス・ドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを条件に、南樺太と千島列島を引き渡すという密約を与えたヤルタ協定に基づいて行われたものである。8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日のポツダム宣言受諾後も、8月22日に知取町で日ソ停戦協定が成立するまでソ連は民間人に対しても攻撃を続けた。

 昭和26年、日本政府は、北緯30度線以南の南西諸島、小笠原諸島南樺太などの権利、権原及び請求権の放棄が明記されたサンフランシスコ講和条約を締結したが、引渡先は未記載である。そして、ソビエト連邦サンフランシスコ講和条約への調印・批准を拒否し同条約の当事国でない為、条約の内容がソ連〈後継のロシア連邦〉に適用される訳ではなく、南樺太の領有権の帰属先は国際法上は未定のままとなっている。

 日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。

 当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、緊急疎開3隻がソ連軍に攻撃されて1,700名が死亡した。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、2,000人の民間人が死亡した

 緊急疎開船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。

 旧ソ連〈ロシア〉と日本の因縁は、このことからも深まるばかりだ。

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樺太庁