ホリショウのあれこれ文筆庫

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第602話 復員船を歌った田端義夫の「かえり船」

序文・波の背の背にゆられてゆれて

                               堀口尚次

 

 復員輸送艦は、太平洋戦争終結後、海外に残された日本人本土に帰還させるために使用された艦船のこと。復員輸送船とも言われる。正確には第二復員省の特別輸送艦/特別輸送船に指定された艦船を指すが、一般には復員輸送艦〈船〉または単に復員船と言われている。

 大戦終結後にはアジア各地や太平洋の島々に約600万人以上の軍人、軍属、一般人が残されており、それらの人々の日本への帰還は急務の問題だった。任務には客船が当たるのが一番良いのだが、当時の日本商船隊は戦時中の徴用や、それに伴う任務中の撃沈・沈没でほぼ壊滅状態であったので、大日本帝国海軍に所属していた艦艇のうち航行可能なものに加え、アメリカ海軍から供与されたリバティ船、LST〈戦車揚陸(ようりく)艦〉各100隻も動員された。旧海軍艦艇に関しては兵装を撤去したうえ、上甲板の空いた場所に仮設の居住区やトイレを設けて使用された。例えば丙型海防艦では便乗者443人収容、復員艦中最大の艦船である空母「葛城」の場合は格納庫を改造して1回に約5,000人が収容された。復員輸送は昭和20年10月から始められ、昭和21年春から8月がピークとなった。その後は艦船数を徐々に減らし昭和22年夏ごろまで続けられた。任務中に座礁などの事故で喪失した艦は、第20号輸送艦、第116号輸送艦海防艦「国後」、駆逐艦「神風」、雑役船「光済」がある。

 任務を終了した艦船のうち軍艦の多くは解体された。航行可能な駆逐艦以下の小艦艇は仮設設備を撤去のうえ特別保管艦となり、呉港などに係留保管、後に連合国に引き渡されている。一部の小型艦は運輸省に移管され中央気象台の気象観測船などとして戦後も日本国内で運用された。少数ながら「宗谷」のように復員輸送任務中に船舶運営会に移管され民間の引揚船として運用された例もある。

 『かえり船』がヒットしていた当時、歌手の田端義夫は巡業のために列車を待っていた大阪駅にて、復員列車が到着し『かえり船』が流され、復員兵と家族が再会し涙を流して曲を聴き入っているのを見て、「ああ、私の歌で涙を流す人がいる。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思ったことを後に著書に綴っている。