序文・忘れられぬ悲痛
堀口尚次
対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船。旧字体の表記は對馬丸。太平洋戦争中の昭和19年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、8月22日にアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け沈没し、大きな犠牲を出した。
昭和19年7月、サイパンの戦いが終結し、アメリカ軍は同島からB-29爆撃機を出撃させることが可能となり、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。これを受けて政府は、沖縄県知事に宛てて『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達した。一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となった。
疎開に当たり児童の親などからは疎開輸送に軍艦の投入を要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに充てる軍艦の余裕などはあまり無く、そのほとんどをC船〈船舶運営会使用船並びに自営船〉に頼らざるを得なかった。辛うじて、第十一水雷戦隊や呉練習戦隊、呉潜水戦隊からの艦艇が、疎開輸送に投入できる艦艇の主力であった。もっとも、全ての沖縄県民が疎開を望んでいたかといえばそうでもなく、未知の土地への移動に難色を示す者もいて疎開希望者はなかなか集まらず、最終的には軍が隣組長や国民学校長を通じて、疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出した。対馬丸も、この命令に基づいて兵員輸送と疎開活動に当たっていた輸送船の1隻であった。
魚雷命中から11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発を起こして沈没した。船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の中、筏で漂流しながら救出を待つことになった。漂流は、風雨、三角波、眠気、真水への渇望、錯覚等との戦いでもあった。
漂流中、対馬丸の小関保一等運転士は10名ぐらいの児童が乗ったいかだにつかまり、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せていた。小関運転士は児童に対して、腰まで水に浸かりながらもあえて座ることとかたまることを指示する。小関運転士の一団は台風に翻弄されながらも必死に耐え、8月23日15時ごろに漁船2隻に救助された。この2隻の漁船に救助されたのは児童、民間人83名、兵7名、乗組員21名であった。
他方、対馬丸の高射砲受け持ちであった吉田薫夫砲手は児童3名といかだで漂流し、軍歌を歌ってしばし気を紛らしたがやがて体力の衰微とともに児童2名が相次いで死亡するという「忘れられぬ悲痛」を体験した後、生き残った児童とともに8月24日に救助された。8月24日に救助されたのは児童、民間人90名、兵13名、乗組員33名であった。
最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにした。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。関連資料によっては60人とされることもある。対馬丸の生存率は学童7%、一般〈疎開者〉14%、軍人48%、船員72%とする資料もある。
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、昭和19年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。対馬丸沈没の前後には潜水母艦迅鯨および長鯨、軽巡洋艦長良、練習巡洋艦鹿島などの艦艇も沖縄へ兵力を輸送する任務の帰途に疎開輸送を行った。沖縄からの疎開輸送には、昭和19年7月から昭和20年3月まで艦船延べ187隻が繰り出され、8万名以上が日本本土と台湾へ疎開した。ただし、この数字にそれ以外の時期や客船や漁船などによる自主的疎開は含まれていない。
犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡字検村などに流れ着いたため、現地には慰霊碑が建立されている。生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた鹿児島県の奄美大島や揖宿郡山川町〈現:指宿市山川町〉などの漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。
児童たちの対馬丸船内での様子はさまざまで、「まるで修学旅行でも行くかのように」、甲板に出て和浦丸を眺めたり、「先生、ヤマトに行くと雪が見られるでしょう」とまだ見ぬ雪に思いをはせる者、船酔いになるも一晩で回復した者、一晩中寝ずに騒いだ者などもいた。手空きの対馬丸乗組員も児童たちとつきあい、「戦争の話や、前に遭難して助かった話などをした」という。