ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第909話 近世漫才の祖・玉子屋円辰

序文・万歳から漫才へ

                               堀口尚次

 

 玉子屋〈慶応元年- 昭和19年)は日本の萬歳および音頭取りの芸人。明治末期から昭和初期にかけ、古典芸能であった萬歳をのちの「漫才」につながる近代的な形式の寄席芸能に仕立て直し、多くの後進を育てたことから、「上方漫才中興の祖」「近世才の祖」と称される。本名:西本為吉。

 河内国河内郡池島村〈のちの大阪府東大阪市〉の生まれ。生家は農家。成人して鶏卵の行商をはじめると、河内音頭や江州(ごしゅう)音頭を歌いながら通りを歩いて鶏卵を売り、評判を取った。音頭取りは俄(にわか)〈宴席や路上などで行われた即興の芝居〉、講談などと並ぶ当時の大阪の寄席芸の主流であり、そのうち江州音頭は鶴賀鶴年一座や桜川大蔵一座などによるブームの真っ只中だった。そんな中円辰は、明治30年ごろから元の商売にちなんだ亭号の「玉子屋為吉」を名乗り、プロの芸人に転じて大阪市内の寄席で萬歳や音頭を演じて人気を博した

 のちに名を為丸と改め、嵐伊六の斡旋で名古屋に巡業し、尾張万歳の分流である「伊六萬歳」の名手・平松佐助に入門。盆踊り唄や「三曲萬歳〈胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳の形式〉」をもとにした、2人組による独自の形式を作った。軽口〈主に2人組で披露される話芸の一種〉とならび、のちのしゃべくり漫才につながる基本形のルーツとされる

 明治37年に円辰と改名。体が大きく、「煙突」という異名だったことにちなむという。翌年、大阪の天満天神近くで「名古屋萬歳」の看板を揚げた常打の小屋を立ち上げた。ただしのちに砂川捨丸の人気を意識し、看板を「関西萬歳」と改めている。大きな一門を形成し、しゃべくり漫才の成立に寄与する多くの弟子を育てた。

 晩年は弟子を連れ全国各地を巡業して回ったほか、「円辰入道」を名乗り、何度も引退興行を開くなどした。晩年は寄席から忘れられ、古典萬歳よろしく門(かど)付(づけ)〈日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能の総称〉で生計を立てていたとされる。

 円辰のひ孫が音頭取り「2代目玉子家円辰」を襲名し、東大阪を中心に活動している〈2014年現在〉。