ホリショウのあれこれ文筆庫

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第620話 日本人移民と棄民政策

序文・新天地と銘打って

                               堀口尚次

 

 日本では20世紀の両大戦の前後の一定の時期に、特に人口増加の解決策のひとつとして移民が奨励された。明治元年ハワイ王国のサトウキビプランテーションに移民が渡り「元年者(がんねんもの)」と呼ばれた。駐日ハワイ総領事ヴァン・リードの要請を受けたもので、153名が送られたが、その待遇は劣悪極まりないものであったため国際問題に発展した。同じ明治元年にはグアムにも移民が渡航した。

 明治18年にはハワイへの「官約移民」が始まり移民は本格化・加速化した。

当初、出稼ぎ目的の移民の送出しについては、救貧対策や外貨の獲得など積極論がある一方、外交当局は移民先の環境が奴隷労働に近い労働で現地住民との摩擦を引き起こしかねないとして慎重であった。そのため明治27年に移民保護規則、明治29年に移民保護規則に代わる移民保護法が制定された。

 明治20年以降、ペルーなどと比較して労働条件の良かった米国への出稼ぎ目的での移民が急増し、明治32年には3万5千人に達した。しかし、低賃金の日本人労働者の流入による賃金低下、習俗の違い、日露戦争後の黄禍(おうか)論〈黄色人種脅威論〉などが原因となり現地では日本人排斥の動きが強まった。

 日本政府は明治33年に米国およびカナダへの移民を禁止したが、日露戦争後にはハワイ、カナダ、メキシコからの転航者が急増したため、明治40年に覚書〈日米紳士協定〉が交わされ米国への移民は大幅に制限された。ハワイから米国本土への移民制限されると、ハワイからカナダへの転航が増えたため、カナダとも移民制限の取極めを締結した。

 北米への移民制限によって、移民の渡航先は南米〈ペルー、ブラジル、アルゼンチンなど〉や太平洋の諸国〈フィリピン、オーストラリア、フィジーニューカレドニアなど〉に拡大した。ただし、オーストラリアでは明治35年に移民制限法が施行されたため移民は制限された。

 その他の受入先としては、アメリカ統治下にあったフィリピンのダバオ市満州国、日本の委任統治下にあったパラオなどの南洋群島などがある。ただし、日本統治下にあった地域への移住は「国内移住と同等」であると考え、移民とは呼ばないことがある。これは、日清戦争による領土割譲また当時の大韓帝国に対する韓国併合以後、日本統治下にあった台湾および朝鮮〈日本列島本土を指す内地と区別して外地とも呼ばれた〉から日本に移住した朝鮮人や、台湾人に対しても同様である。

 第一次世界大戦戦後恐慌大正12年の関東大震災により失業者や困窮者が大量に発生し、労働者や小作人の争議が頻発するなど社会不安に襲われた政府は、打開策の一つとして大正12年から南米移民の宣伝を開始し、翌大正13年には渡航費の全額補助を決定。全国の道府県に海外移住組合を設立し、現地に大型移住地を建設して移民を送り込んだ

 とりわけ、昭和元年以後の昭和恐慌の農村への影響は大きく、昭和9年の冷害は特に大きな打撃を与えた。その一方で中国東北部での自国による傀儡政府・満州国の成立によって、満蒙開拓団が国策として必要となった。拓務省が設置され、『月刊拓務時報』が刊行され、拓務省内には海外移住相談所が開設された。横浜、神戸には移民希望者が集まり、彼らを相手に出国手続や滞在中の世話をする移民宿が誕生した。またその出身地にちなんだ「薩摩町」「加賀町」などの町名が残されている。

 第二次世界大戦後の日本では昭和25年には復員や引揚者が600万人以上に達していたが、雇用機会が少なく移民再開が待ち望まれていた。サンフランシスコ講和条約締結後、昭和27年末にブラジルへの移民が再開され、パラグアイ・ドミニカ・ボリビアなどへの渡航が増加した。特に、昭和31年に開始されたドミニカ共和国への移民については、当時の日本政府の喧伝内容と実際の現地の状況・待遇にかなりの相違があり、事実上の「棄民(きみん)」ではなかったのかと、後年日本の国会などで議論されている。 

 棄民とは、政府によって切り捨てられた元自国民を指す語。日本では、満州の開拓にかり出され敗戦後に当地に取り残された人々や、国内の食料難から政府に奨励されてハワイ、カリフォルニア州中南米諸国に移住していった人々などが「棄民」と呼ばれることがある。また、第二次世界大戦後に朝鮮半島の混乱から日本に渡り、祖国に帰らず残留したり、帰還事業で北朝鮮に渡った在日コリアンを韓国政府から見捨てられた棄民と見なすこともある。