ホリショウのあれこれ文筆庫

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第455話 会津藩出身の陸軍大将

序文・戊辰戦争の禍根を背負って

                               堀口尚次

 

 柴五郎、万延元年 - 昭和20年は、陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍(えいじゅ)総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任し、階級は陸軍大将勲一等攻二級に至った。

 会津藩の上士〈280石〉である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南〈青森県むつ市〉への移住を選ぶ。

 藩校・日新館、青森県庁給仕を経て、明治6年、陸軍幼年学校に入校。明治10年陸軍士官学校に進み、明治12年、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年に士官学校を卒業する。

 明治32年の陸軍中佐進級を経て明治33年、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任まもない時に、義和団事件が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害される。柴は公使の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タオムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。

 大正元年、重砲兵第1旅団長となり、大正2年に陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴が閑職にあったのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからともいう。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。故郷の会津が薩摩勢に甚大な被害をもたらされ、自らの家族も犠牲にあったため、薩摩の西郷隆盛大久保利通の死を「一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり」として喜んだと回顧している