ホリショウのあれこれ文筆庫

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第484話 明治の元老・山県有朋

序文・一介の武弁

                               堀口尚次

 

 山縣有朋(やまがたありとも)、天保9年 - 大正11年は、日本の武士〈長州藩士〉、陸軍軍人、政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位従一位大勲位攻一級侯爵。内務卿〈第9代〉、内務大臣〈初代〉、内閣総理大臣〈第3・9代〉、司法大臣〈第7代〉、枢密院議長〈第5・9・11代〉、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長〈第5代〉などを歴任した。

 長州藩足軽として生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治政府では陸軍内務省のトップを歴任し、二度の首相を経験し、伊藤博文に匹敵する藩閥の最有力者となった。伊藤の死後は最有力の元老(げんろう)となり、軍部・官界・枢密院貴族院に幅広い藩閥を構築し、明治時代から大正時代の日本政界に大きな影響力を保った

 早くから長州奇兵隊や新政府軍の中枢を任された山縣は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満州総司令官就任を希望しているなど、軍人であることを意識しており「一介の武弁」を口癖としていた。山縣の薨(こう)去(きょ)とともに、薩長による寡(か)頭(とう)的な藩閥支配はほぼ終焉した。元老は軍に対して強い影響力を持たない松方正義〈松方も約2年半後に病没している。〉と西園寺公望のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失ってしまったのである。

 東京・千代田区日本武道館で行われてた安倍元首相の国葬で、菅義偉前首相が、友人代表として弔辞を述べ、安倍氏との思い出を振り返った。菅氏は、安倍氏の国会内の事務所の机に、読みかけの『山県有朋』〈岡義武・著〉が置かれていたこと、最後のページの端が折られ、ペンで印を付けられていたことを紹介。菅氏は、印が付けられていたのは、山県有朋が先に亡くなった盟友・伊藤博文をしのんで詠んだ歌だとして、「今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。『かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ』深い哀しみと、寂しさを覚えます」と語った。

 足軽から、総理大臣・陸軍大臣従一位に上り詰めたのは者はいない。