序文・三種の神器
堀口尚次
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、日本神話の記述の通りであれば、熱田神宮の奥深くに神体として安置されている。
この剣は盗難に遭ったことがあり、天智天皇7年に新羅の僧・道行(どうぎょう)が熱田神宮から草薙剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした〈『日本書紀』二十七巻、天智天皇〉。『尾張国熱田太神宮縁起』では、一度目は神剣が自ら神宮に戻って失敗。二度目は船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された。
その後、草薙剣は宮中で保管されていた。『平家物語』では、天武天皇が草薙剣を内裏に移したと伝える。朱鳥元年6月、天武天皇が病に倒れる。病気の原因は「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明した。陰陽師により御祓を行い、あるいは恩赦や仏教による功徳に期待して病の回復を祈るが、それでも神剣の祟りが解けなかったという。草薙剣は熱田神宮に戻されたが、天皇は9月に崩御した。
鎌倉時代に熱田神宮が炎上した際、幅一尺・長さ四尺の漆塗り箱に収められた神剣は、直接被害を受けることはなかった。神宮の神職が確認すると、赤地の錦袋があったため、神剣と判断して八剣殿(やつるぎのみや)に収めたという。御記文によれば、ヤマトタケルの前世は素戔嗚尊であったとしている。『熱田太神宮御託宣記』でも、久子内親王〈後深草天皇皇女〉関連で同様の伝承を伝えている。
綱吉時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4~5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景〈名古屋藩士、国学者〉の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英の『玉籤集』裏書にある記載は、明治31年の『神器考証』〈栗田寛著〉や『三種の神器の考古学的検討』〈後藤守一著〉で、世に知られるようになった。上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃〈長さ五尺〉を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵で全てが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸〈およそ85センチメートル〉ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸〈およそ18センチメートル〉ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。 この証言が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。
一方で、後藤守一は、〈皇国史観の束縛がなくなった〉太平洋戦争終戦翌年に明治大学専門部地理歴史科の講義で、神官が盗み見た剣は青黒かったとの伝承を紹介し、それが事実なら、赤く錆びる鉄製でなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性があるとの推測を述べた〈聴講した考古学者大塚初重による回想〉。
なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。
明治時代初期には、草薙剣を調査するため勅使が派遣された。最後の箱を開こうとした時に三条実美〈当時の太政大臣〉から中止命令が届き、調査は行われなかったという。 川口陟『定本日本刀剣全史』には、「熱田大宮司尾張連家の秘伝」として、神剣の形状および御(み)樋(ひろ)代(し)の想像図が記載されている。
昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために長野県の木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意した。昭和20年8月22日、勅使として侍従の小出英経が昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めた。 箱は御名御真筆の勅封紙と麻で厳封の上、さらに勅使たる侍従の封を施した後、従来の外箱中に奉安して施錠が行われた。
尚、熱田神宮のホームページには以下の説明がある。
『熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。』
