ホリショウのあれこれ文筆庫

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第853話 陸軍に永田あり

序文・賛否両論

                               堀口尚次

 

 永田鉄山明治17年昭和10年は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。 陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新〈長州閥支配打破など〉を進めた。

 陸軍省軍務局長〈階級は陸軍少将〉時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された〈相沢事件〉。統制派の頭領と目されていたこともあり、特に満州事変以降の永田については、全く相異なる見解が存在している。統制派」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「皇道派」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある。

 永田は1920年代中頃において、政党政治と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の支那事変に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走〈暴走〉させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」〈国防意識を高め、国民の理解を得る〉という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている。

 他方、石原莞爾らが関東軍を使い起こした満洲事変を、永田を含めた一夕会は支持していた。永田が、関東軍の暴走を結果的に支持していたのは事実である。だが、永田が満洲事変に賛同していたとするには疑問が残る。事変の3か月前、永田は軍事課長として五課長会の幹事役を務め「満蒙問題解決方策の大綱」を作成・提出している。大綱では主に「関東軍の自制・国際世論を味方につける事」等が掲げられており、当面の紛争を回避する方針だった。尤も、満洲国が建国されて以後は、永田がこれまで行ってきた「現地軍の抑制・独立国家建設阻止」等の努力も甲斐なく、満洲事変の現状を追認せざるを得なかった。