ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第854話 凞邦親王伝説

序文・後花園天皇の皇子

                               堀口尚次

 

 愛知県知多市新知字大内〈名鉄常滑線古見(こみ)駅近く〉に「凞邦(てるくに)親王御塚遺跡」と「煕邦親王記念碑」なるものが存在する。これらは後花園天皇3皇子凞邦親王を偲んで造られた塚で、初めは浜辺にあったものを海水の難を避けるために此の地に移したと伝えられている。通称「てるくにさん」。伝承によれば、
享徳元年1月志摩から当地に流落(りゅうらく)、長井氏の許(もと)に身を寄せ、永正6年81歳で薨(こう)じた。近世の豪商・濱島伝右衛門など濱島一族は親王の子孫とも供奉者の子孫だという。

 大正12年知多郡史によると『定光圓明禅師と稱(しょう)せらるる御方があった。これは崇光(すこう)院〈崇光天皇〉の皇子で僧となって靑林(せいりん)と號(ごう)し賜ひ古見〈現在塚のいあるあたり〉に来て龍雲院〈現在もある塚の近くの寺院〉に住し賜いひしことである。この御方は永享八年六月六日寂去(じゃくきょ)遊ばされた御年八十七云々と。凞邦親王後花園天皇の皇子である。靑林は御一門にあたらせられてこの許へ尋ね來り給ひしは享徳元年正月五日であって親王は永正六年三月五日薨去(こうきょ)あらせられたとの事である。その供奉の人として後世まで名を傳へられて居るものは朝倉に濱島一家といふのがある。親王この地に來り給ひし事柄に就きては更に傳ふる所のものがない。この頃は皇室衰微に渡らせ給へりといへども親王の御連枝が皇位に即き給ひし頃の事であったとすれば世の中を厭(いと)ひ賜ひしとも思はれぬのである。然れども佛門に入り給ひたる御一門の君の許へ來り給ふたことには所由あるべきものだと思惟(しゆい)される。』とある。

 また、知多市史によると『煕邦親王は、栄仁親王の孫の後花園天皇の三男といわれ、古見の竜雲寺開山の青林和尚は栄仁親王の弟と伝えられる。煕邦親王血のつながる青林和尚をたよって知多へ来住されたという経緯になったものであり、近世になって活躍した大野浜島家をはじめ、佐布里・村木の浜島一族の祖となったと伝えている。』とある。

 更に郷土資料によると『…さて、この塚の主、照邦親王は、丹後の宮津から、従者をひき連れて、ここに流れついたと言われ、永井・下谷・腰島・浜島の姓は、この親王の四天王の人々であったと言われている。』とある。※煕邦は照邦となっている。尚、皇子が後花園天皇から親授された「天国の宝剣」は古見神明社の宝物のはずだが、密かに持ち出され岡田の某家に秘蔵されているとか。