ホリショウのあれこれ文筆庫

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第685話 河豚計画の頓挫

序文・美味だが猛毒を持つ

                               堀口尚次

 

 河豚(ふぐ)計画とは、昭和5年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。昭和9年に鮎川儀介〈実業家・政治家〉が提唱した計画に始まるとされ、昭和13年の五相(ごしょう)会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟茂らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。

 「河豚計画」の名は、昭和13年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った

 河豚計画の核心はアメリカ〈殊にユダヤアメリカ人〉を説得することにあった。つまり、ヨーロッパ諸国の数千から数万のユダヤ人に対して、満洲国〈あるいは上海〉への移住を勧めるようアメリカを説得しようとした。その目的は、ユダヤ人の経済力の恩恵を日本が享受し、日本へも資本を投下させようとしたためである。その背景として、当時すでにユダヤ人がヨーロッパ諸国で迫害を受けるばかりか、ドイツ国内における市民権を否定され公職から追放されるなど深刻な状況下におかれていたことを挙げることができる。実際、ナチス政権下のドイツにおいては、1935年にニュルンベルク法が制定されるに至っていた。

 河豚計画は、「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長い表題の付いた計画書である。その中で計画者らは豊富な選択肢を提示した。その選択肢には、ユダヤ人の移住及び投資獲得の方法に関する詳細な計画が含まれていた。昭和14年6月に編纂されたこの計画書は、同年7月に「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題した上で政府に提出され、承認を受けた。当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、また、アメリカは、満洲国建国などで日本との外交的対立が先鋭化してきていた。