序文・蔓延していた覚醒剤
堀口尚次
日本で覚醒剤〈商品名ヒロポン〉が発売されてまもなく太平洋戦争が開戦したため、ドイツ等のヨーロッパ諸国のように一般市民に蔓延する前に軍事目的に利用されることとなった。その目的は、厚生省薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する質疑応答の通り、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」と「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった。薬学の専門家からも、メタンフェタミン自体が鎮咳剤エフェドリンの誘導体として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覚醒効果の方が顕著だったため、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用、特に夜間に飛行するパイロットに使用されていたという指摘があっている。なお、ヒロポンという商品名が覚醒剤の代名詞のようになったのは戦後のことと思われるが、戦中の証言や回想についても、その多くが覚醒剤全般のことをヒロポンと呼んでいる。これは証言や回想の殆どが戦後しばらく経過してからのもので、ヒロポンが覚醒剤の代名詞として定着していたからだと思われる。
「ぺルビチン」などの覚醒剤を積極的に使用していたドイツ軍と比較すると、日本軍におけるヒロポンの使用については証言が限られており、その例としては、日本海軍の撃墜王の一人・坂井三郎が、最前線のラバウルで連日出撃を繰り返していた時に疲労回復薬としてブドウ糖を注射されていたが、戦後に注射をしていた軍医と再会した際に、そのブドウ糖の注射の中にはヒロポンも混入されていたと聞いたという。
かつてより、「普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない」などと、特別攻撃隊の隊員を興奮させて、死に対する恐怖に麻痺させるため軍がヒロポンを利用していたとの主張もあるが、これも記述の日本軍全般におけるヒロポンの使用実績と同様に事実相違のものも多い。
覚醒剤は「本土決戦兵器」の一つとして量産され、終戦時には大量に備蓄されていた。日本の敗戦により、一旦はGHQに押収されたが、のちに昭和20年12月4日付連合国最高司令官指令において「この司令部が定める期日には、この司令部が定める金額の日本軍用医薬品麻薬備蓄の一部は、米軍によって認可された医薬品卸売業者の管理下に放出される。」との日本軍用医薬品麻薬の開放指令により、他の医療品とともに覚醒剤も大量に市場に流出した。
戦後になると覚醒剤は、以前の「疲労回復」や「眠気解消」といった目的に加え、精神を昂揚(こうよう)させる効果によって、酒やタバコの様な嗜好品の一つとして蔓延した。その蔓延の大きな要因となったのは、市場に大量に供給されたことによる価格の安さであり、ヒロポンの値段は注射10本入りで81円50銭で、闇市でも100円以上で買えた。その頃の日本酒の並等酒はl升で645円であったため、嗜好品としての入手し易さは際立っていたといえる。そして既述の通り、メタンフェタミンとアンフェタミンの製剤の覚醒剤は、のちに製造が規制されるまでは23社が24の商品名で製造販売していたのにもかかわらず、いつしか大日本製薬の一商標に過ぎなかった「ヒロポン」が、そのシェアの大きさから覚醒剤の代名詞の様に呼ばれるようになった。覚せい剤取締法が施行されても、覚醒剤中毒者による凶悪事件は後をたたず、昭和29年に、授業中の小学校内で生徒が覚醒剤中毒者によって殺害されるといった衝撃的な文京区小2女児殺害事件が発生。さらに同年には中毒者が通行人5人を川に投げ落として幼児3人が死亡する事件も発生するなど中毒者による殺人事件が続発、より取り締まりが強化されていくこととなった。
ヒロポンは効能・効果に記載の通り、覚せい剤取締法における「限定的な医療・研究用途での使用」としてナルコレプシー〈睡眠障害〉や鬱病などの症状の治療のために住友ファーマで生産・販売が続けられ、日本薬局方上は処方薬〈処方箋医薬品〉の覚醒剤として残っている。その投与方法は、1回2.5〜5mg、1日10〜15mgを経口投与するとされているが、重要な注意事項として「反復投与により薬物依存を生じるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し、慎重に投与すること。」「本剤投与中の患者には、自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること。」「治療の目的以外には使用しないこと。」が徹底され、厳格な管理のもとで使用されている。