ホリショウのあれこれ文筆庫

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第200話 三つの台湾人「原住民・本省人・外省人」

序文・約50年間日本が統治した台湾

                               堀口尚次

 

 台湾は、東アジアの台湾本島を中心とした国家、および中華民国の通称である。昭和20年、当時台湾を統治していた大日本帝国第二次世界大戦において無条件降伏したことを受け、台湾は澎湖諸島と共に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の施政下に編入された。その後、党国体制を採る中国国民党国共内戦敗北で中華民国が中国大陸と海南島の国土を喪失したため、台湾は中国大陸から移転した中央政府〈台湾国民政府〉所在地、かつそれ以降も中華民国が実効支配する地域で面積の99%以上を占める事実上の本土 となった。そのため、「台湾」の表記は中華民国の通称または台澎金馬全体〈台湾島と諸島を含めた実行支配地の総称〉の名称としても使用される。

 台湾島は、漢民族が同島に移住し始めた17世紀における大航海時代のオランダ及びスペインの植民まで、台湾原住民が主に居住していた明王朝の残党である軍人がオランダを追放し、同島初の政治的実体である東寧王朝を設立した。その後「清」が同王国を破り、台湾島を併合した。その後日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾になった。

 第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸して来た。だが、中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行や強盗事件が頻発した。更に行政公所の要職は新来の外省人〈日本から独立した以降に中国大陸から来た人〉が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人〈台湾人〉が公所と政府軍に反発し、本省人の民衆が蜂起する事件が起きた。その際に、蔣介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、台湾省政府による台湾統治を開始した。国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている。国民党が当時の資料の公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は不明で、犠牲者数には諸説ある。国民党軍兵士の強奪、官吏の腐敗ぶりには目に余るものがあり、国民党軍の占領後間もないころから、本省人〈台湾人〉は、新たな支配者に失望し始め、「犬が去って、豚が来た」と嘆くようになった。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いという意味である。なお、日本国は日本国との平和条約〈サンフランシスコ平和条約〉や日華平和条約において台湾の領有権を放棄したものの、両条約ではいずれも台湾の中華民国への返還〈割譲〉が明記されていない。そのために現在では、台湾は中華民国によって占領されているだけであり、最終的な帰属国家は未定であるとの解釈も存在する。

 蒋介石は、中国大陸で毛沢東共産党に敗れ、台湾に逃げて来たのだ。そこで、共産主義拡大を拒むアメリカを味方にすることで、経済成長を成し遂げたのだ。中国大陸の『中華民国』は、毛沢東により『中華人民共和国』となり、台湾に渡った蒋介石は『中華民国の台湾国民政府』を樹立したのだ。

 中華民国という国名は、中華民国政府が「一つの中国を代表する主権国家」であるという認識に基づいている。そのために、1971年に国際連合アルバニア決議で、中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認された後は、国際連合機関では「中華民国」と称するケースがなくなり、オリンピックなどのスポーツ大会や国際機関においては、『チャイニーズタイペイ』という名称が使用されている。これは、国際連合ならびに同加盟国の多くが、中華民国政府を「全中国を代表する主権国家」として承認しない一方で、台湾地域を実効支配する中華民国政府との非公式関係を維持していることによる。

 こんなぐあいに、台湾の歴史はかなり複雑で難解である。原住民や本省人外省人の関係もしかり、蒋介石統治時代の恐怖政治しかり、現在のチャーニーズタイペイの名称しかりである。

 唯一台湾にとってよかった時代は、日本の統治時代ではなかろうか。勿論初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していたが、その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。

 台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民〈日本人〉になるかを選択させた。1895年に台湾が大日本帝国編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止とした。当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで日本人が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、ダムと用水路を建設している。

 当然に台湾にとって日本統治時代は、多大な痛みを伴った事は事実だが、多くの功績も残してるのだ。だからこそ、彼らは「犬が去って、豚が来た」と言ったのだ。私は、日本犬はそんな悪さをしなかったのだと信じたい。

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