ホリショウのあれこれ文筆庫

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第713話 ABCD包囲網

序文・経済制裁か経済封鎖

                               堀口尚次

 

 ABCD包囲網とは、昭和10年頃から、海外に進出する日本に対抗して行われた石油屑鉄(くずてつ)など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網。「ABCD」とは、貿易制限を行っていたアメリカ〈America〉、イギリス〈Britain〉、中国〈China〉、オランダ〈Dutch〉と、各国の頭文字を並べたものである。この呼称は日本の新聞が用いたものとされるが、初出については良く分かっていない。この対日政策が、経済制裁か経済封鎖かについては、研究者間でも一定していない。

 昭和6年9月18日の満州事変の発生で、国際連盟中華民国の提訴と日本〈大日本帝国〉の提案により、日中間の紛争に対し介入を開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受けて、昭和8年2月24日の国際連盟総会では「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票〈日本〉、棄権1票〈シャム=現タイ王国〉、投票不参加1国〈チリ〉で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が派遣される以前の昭和6年11月11日の段階で、駐米英国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された。

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が地域紛争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では、同年9月28日に中国の都市に対する爆撃に対する、23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。昭和13年9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの、加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始された

 孤立主義の立場から、アメリカ合衆国議会での批准に失敗し、国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、満州事変当初は、中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力的であった。しかしその立場は不戦条約および九か国条約の原則に立つものであり、満州国の主権独立を認めず国際連盟と同調するものであった。アメリカ合衆国孤立主義的な立場が変わるのは、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領になってからである。ルーズベルトは大統領に就任してから昭和12年の隔離(かくり)演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せ、日中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を採っていた。しかし、同年7月に盧溝橋事件が発生すると、対日経済制裁の可能性について考慮をし始め、10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長しつつある枢軸諸国への対処を訴えた。日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然として孤立主義の声もあって慎重であり、長期的で段階的なものであった。

 仏印進駐による昭和16年7月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する、石油の全面禁輸措置によって、ABCD包囲網は完成に至る

 7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した〈南部仏印進駐〉。これに対する制裁という名目のもと、米国は対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、英国は対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印〈オランダ領東インドは対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、アメリカによる石油輸出全面禁止が国内世論に深刻な影響となった。これにより、日本国内での石油備蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると帝国陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」と論評している。

 9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかし、アメリカはイギリスや中国の要請〈大西洋憲章〉により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、蒋介石政権以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した。なお日本側が乙案を最終提案として、交渉終了の目安を11月末程度と考えていた事は、暗号解読と交渉の経過により米国側にも知られており、その上で穏健案は破棄され、厳しい内容のハルノートが提示された。