ホリショウのあれこれ文筆庫

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第318話 愛知用水に捧げられた命

序文・水はあたりまえになかった

                               堀口尚次

 

 愛知用水は、愛知県の尾張丘陵部から知多半島にかけての一帯に農業用、工業用、上水道用の水を供給する用水である。

 大きな河川が無く水不足であった知多半島地域への用水運動が愛知用水誕生の端緒である。水不足を溜池で何とかやりくりしていた知多地域は、昭和22年に大干ばつを受けて溜池が壊滅し大きな被害を受けた。これにより用水設置を求める運動が起こった。このうち、木曽川からの引水を計画したのが篤農家の久野庄太郎安城農林高校教諭の浜島辰雄である。翌年には地元有志による「愛知用水期成会」が結成された。また久野・浜島は首相吉田茂へ陳情し、国の政策として用水路建設が進められることになった。

 愛知用水はため池に頼っていた尾張丘陵部、知多半島の農業生産や井戸に頼っていた住民の日常生活を著しく向上させた。海水交じりの井戸水に生活用水を頼っていた知多半島南部及び日間賀島篠島佐久島の住民からは特に感謝されたという。地域住民の生活は著しく向上し、観光などの産業の発展にもこの用水の水は貢献した。この用水が供給する工業用水によって東海製鉄所〈東海市、現・日本製鉄名古屋製作所〉の立地が可能となった。知多半島大府市東海市上水道では現在も愛知用水の水が使われている。

 昭和30年10月に「愛知用水公団」設立。工事期間は5年間。6,800立方メートルを蓄えるダム〈牧尾ダム〉、100キロメートル余の幹線水路と1,000キロメートル余の支線水路が建設された。建設に際して56名の殉職者を出した。

 久野は平成9年に亡くなった。享年96歳。生前から献体運動に熱心だった彼の遺体は、遺言通り医学研究に供された。 献体も用水建設で犠牲を強いた方々への、せめてもの報恩ダムに沈んだ186戸の人々へ感謝の念であるという。すがすがしい一生である。

 昭和51年には佐布里調整池を臨む高台に愛知用水神社が建立され、殉職者56名の霊位が合祀された。生前の久野は、「知多農民の夏の労働の半分は水くみ作業だった。ため池が満水になるのは3年に一度。貧農は命がけで水をくむわけで、反(たん)当たりおけで平均3千杯くむと全面に行き渡る」と語り、農民である自らが動き用水建設の必要性を説き、国まで動かしたのだ。そしてその陰には、殉職された尊い命があり、ダムに沈んだ人々がいたことを忘れてはなるまい。