ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1020話 「マンネンさ」こと森田萬右衛門

序文・風紀改善

                               堀口尚次

 

 森田萬右衛門(まんえもん)嘉永5年 - 昭和9年〉は、尾張国知多郡富貴村〈現・愛知県武豊町〉出身の篤農家。地元では親しみを込めて「マンネンさ」と呼ばれる。

 嘉永5年、百姓である森田浦蔵の長男として生まれた。幼名は亀太郎。富貴村の円観寺にある寺子屋である弘文学校で学び、二宮尊徳報恩思想に感銘を受けた。若い頃は若連中の代表として村人を先導した。

 明治11年に富貴村・東大高村・市原村の3村が合併して三芳村となると、明治12年には26歳にして三芳村の戸長〈現在でいう村長〉に任命された。戸長時代には教育の普及と農業の発展に貢献した。優秀な若者を選抜して村費で師範学校に通わせ、卒業後には三芳村の小学校に雇用するという画期的な制度を導入。また、ため池の造成、山野の開墾、他村に先駆けた桑園の開発〈養蚕(ようさん)〉など、農業生産の向上に尽力した。明治15年には学務員となり。富貴村立小学校の校舎の改築に尽力した。

 明治21年には富貴村東部の知多湾岸の干拓事業を完成させており、この土地は森田を称えてモリマン新田森万新田と名付けられた明治26年には賭博禁止令を制定、その他には飲酒や夜這いも禁止して富貴村の風紀を改善している。

 森田は富貴村のみならず、知多郡の他地域でも農業の改良に尽力した。害虫の駆除、共同苗代の実行、養蚕組合の設立、蚕種の製造、産米の改良などである。大正10年には愛知県の内外からの賛同を得て、富貴村の中心部に森田翁頌徳記念図書館が設立された。森田の古希〈70歳〉を記念したこの事業には当時としては巨額の17000円が投じられている。昭和7年新宿御苑で開かれた観菊会では昭和天皇に拝謁した。森田昭和9年に不帰の人となり、富貴小学校で村葬が行われた。森田家の菩提寺は教福寺であり、教福寺には森田の書による額が飾られている。

 生前に森田が説いていた木曽川から知多半島への用水の必要性は、知多市の久野庄太郎らに引き継がれ、昭和36年には愛知用水として結実した。武豊町役場富貴支所前には森田萬右衛門銅像が勃(た)っている。武豊町歴史民俗資料館には森田の業績をまとめたモリマンコーナーが設置されている。

※筆者撮影