ホリショウのあれこれ文筆庫

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第915話 鉄道で漁業発展に貢献した森治郎

序文・地元〈名古屋市中川区〉の名士

                         堀口尚次

 

 森治郎(じろう)は万延元年、下之一色村で代々庄屋を務める大地主の森家に生まれた。父の治平は村長から愛知県会議長を勤め、愛知県水産試験場を下之一色に誘致するなど、下之一色漁業の発展に貢献した下之一色町は、かつて愛知県愛知郡に存在した町である。現在の名古屋市中川区の一部である。庄内川と新川に挟まれた地域であり、漁業の町として栄えた

 森治郎は明治28年に下之一色農会を設立し、その約10年後には当時では画期的な田畑の耕地整理事業を行った。大正元年には下之一色信用組合〈後の農業協同組合の前身〉を設立し、組合長に就任した。また漁業に関しても、明治36 年に下之一色漁業組合を設立して初代の組合長になった。漁業者のための組合病院を作り、それは昭和7年には一般にも公開した共愛病院になった。

 大正元年には下之一色魚市場を開設し、仲買制度を確立した。さらに名古屋の市街地へ魚の行商に行きやすいように「下之一色電車軌道株式会社」を設立して、翌年には下之一色から尾頭橋までの私鉄「一色電車」を開通した。一色電車は昭和12 年に名古屋市が買収して、市電・下之一色線になった。一色電車会社は大正14 年に松蔭遊園地を開発して運営し、海水浴場として賑わった。

 下之一色電車軌道は、漁師の町であった愛知郡下之一色町名古屋市の市街を結ぶために、大正元年に設立された。翌大正2年には新尾頭 - 下之一色間に電気軌道を敷設した。この軌道の起点となる新尾頭停留場は名古屋電気鉄道の尾頭橋停留場と徒歩連絡が可能な位置に設けられたが、終点の下之一色停留場に関しては、町の中心が庄内川の右岸〈西側〉にあったにもかかわらず、架橋の資金がなかったことから左岸(東側)に置かれた。軌道の営業成績は周辺が田園地帯であるため不振で、主に魚の行商人が利用客となっていた

 昭和22年に88歳で逝去するまで、地域の発展に尽力した。地元では父の治平から治郎やその子孫までの一家を森様と称して尊敬しい。なごや農業協同組合下之一色支店の横には森治郎を顕彰する石像がある。

 大正元年に誕生した「下之一色魚市場」は、最盛期には100軒が並ぶ海産物取引拠点だったが、2021年3月に約100年の歴史に幕を下ろした。